明智 光秀 越前。 越前・称念寺 明智光秀が夫妻で身を寄せていた場所 » 歴史観 武将などの人物情報・史跡情報

【越前・若狭】明智光秀とその時代~福井県の戦国史跡巡り~ | 男の隠れ家デジタル

明智 光秀 越前

スポンサーリンク 明智光秀の最期 明智藪への行き方 明智光秀は本能寺の変で主君である織田信長を討った、戦国時代の武将です。 天下をとったその後すぐに、秀吉に 天王山の戦いで破れてしまいます。 坂本へ逃げる途中に、最期を迎えた場所が 小栗栖です。 まいまいポケットをガイドに小栗栖へ訪れてみました。 明智藪へ行くには、 地下鉄東西線の「石田駅」が最寄りの駅となります。 石田駅は、京都の市内からだと、醍醐駅の次です。 東西線の最期の駅、六地蔵の一つ手前です。 案外早く行けますよ。 石田駅2番出口から、 明智藪まで歩いて15分くらい。 ちょうど良いお散歩になります。 石田駅から、山科川の方に向かってください。 駅を出て最初の方向がわからないと、なかなか進みませんよね。 まずは川が目印です! 明智藪への道は地図を参考にしてください。 大河ドラマのブームで、控えめではありますが、随所にのぼりを見ることができました。 あまり迷うところはないと思います。 スポンサーリンク 明智光秀の最期 明智藪の見どころ 私は今回、まいまい京都のアプリ「まいまいポケット」の、 「【小栗栖】明智光秀・最期の謎!歴史研究者とたどる、戦国時代の小栗栖」という回をダウンロードして散策することにしました。 地図と連動しているので、ガイドを聞くポイントもわかるようになっています。 ガイドさんは、 谷口拓さん。 醍醐・小栗栖地域の歴史研究者さんです。 マニアックなコースなので、ガイドがあるととても理解が深まって楽しいです。 石田駅を出発し、まずは山科川にかかる橋の真ん中で山に向かってガイドを聞きました。 ざっくりとした地形を説明され、山の向こう側に光秀が本当は行きたかったとされる坂本城があるということで、もう気分は戦国時代になってきました。 土地勘があると、余計に話にひきこまれますね。 次が楽しみです。 途中で、 小栗栖城跡が紹介され、なんとなく当時の村の雰囲気を想像することができました。 地形を生かした山城で、村の横にお城があったようで、小栗栖の地域は 飯田氏が支配していたとのこと。 諸説あるようですが、飯田氏によって光秀は討たれたのではないかという説もあるようです。 こちらが 明智藪です。 天正16年6月13日に明智越からふもとに下りてきたこの藪の中で、落ち武者狩りの百姓によって討たれたと言われています。 こちらの絵にあるような感じですね。 この後、勧修寺にて首が見つかったと言われています。 スポンサーリンク この日は竹林が焼かれていて、炭のいい香りがしていました。 ちょっと不気味な雰囲気。 明智藪に来る前は、光秀は 明智越とよばれる道なき道を越えてきたようです。 本能寺の変の後、山崎の地で秀吉との戦に負け、この道を通って小栗栖にやってきたと考えられています。 明智越からは、小栗栖の村がよく見えたのでしょうか。。 実際にこの土地でそのようなことが起こったと思うと、ちょっとドキドキしました。 明智藪に行く手前には、 小栗栖天満宮があります。 うっそうとしている藪の中。 このあたりもきっと、光秀は通ったのでしょうね。 さいごに まいまいポケットのガイドで、小栗栖に行ってきました。 明智光秀の最期の地である 小栗栖に思いをはせながら、明智越に寄った後、明智藪まで行ってきました。 坂道もあり少々大変なのですが、ガイドのおかげで楽しい歴史散策ができました。 ポイントポイントで解説が入るので、理解も深まり、実際にその地で聞くので興味が広がります。 おすすめです!.

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明智光秀——他的人生和濃尾故事(一)

明智 光秀 越前

《明史》海外諸國傳是距今300多年前交通不發達的年代依據沿海人民的道聼塗説寫成的。 事實上如明智光秀這樣出人意外的改變了局勢最可能的走向,並因之道德色彩兩極端,而容易引發後世無限想像的人物,也實屬罕見。 明智光秀作為一個知名人物活躍在有影響力者視野中(這是古人能留名史籍的主要原因)的時間實際上只有十幾年,在歴史長河中這只是短暫的一段。 後世所知的詳細內容主要來源自成書於江戸前期(從開幕到寛永年間,即西元17世紀上半葉,前三代江戸將軍期間)的《美濃国諸旧記》、《明智軍記》和《細川家記》中難以證實卻也難以證偽的部分。 但就是這樣殘片般的信息,還是有指向某些共同之處,透露給後世一些大概的事實:在織田信長的政治與征戰生涯中,這是一個對信長起過很大幫助,很有能力的奇特人物。 一般認為,明智氏出自建武新政至室町時代的美濃国守護土岐家的旁支,是西元1330年代的武將土岐伯耆守頼貞的後裔。 土岐頼貞身為鎌倉幕府的御家人和執権北條家的親戚,卻積極支持後醍醐天皇和室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏而有事蹟見於《太平記》。 然而美濃源氏再古老,具體到光秀時,這種最早見自江戸前期至中期之間官修史書或者軍記物語的說法,一直存在許多疑問。 首先,明智家從土岐頼貞以後家系就已經說法不一。 一些學者相信之所以出入很大是因為光秀的出身其實並不顯赫,就如織田信長集團的其他知名人物一樣,至多是前田利家那樣在土豪家族中都屬於庶流,生來只能為主家或家族嫡流從基層用命做起的低級武士家庭。 所以,明智光秀早年的信息幾乎是空白的。 然而,如果考慮到另外一個能夠確信的事實,在這人民普遍貧窮、文教不普及的封建社會亂世之中,光秀的見識和教養又能遠在前田利家、豐臣秀吉這些人之上,堪稱文武雙全,那麼他的身世不可能是太過低微的。 光秀的生年也沒有可靠的當世記錄留下來,但應該不會晚於天文初年(1530年代初),也就是跟信長、秀吉是同齡人,甚至還略年長一些。 《明智軍記》說是享祿元年,即1528年。 及光秀成年時,1550年代的日本,依然處於戦国時代最混亂,甚至堪稱最黑暗的階段。 起初在15世紀期間,還是室町幕府架構內将軍、管領、守護這些高層之間的武力衝突。 原本在室町時代,一国一守護(京都所在的山城国和邊遠的陸奥国、出羽国除外),一個家族的兄弟幾人分任兩三国守護,甚至一個人兼任多国守護都是普遍現象。 初時頼武得勝。 但六年後的大永五年(1525年)頼藝又成功推翻頼武,將頼武和其子頼純放逐至頼武生母朝倉氏的出身地越前国。 然後頼純又在外祖父家越前守護朝倉家的支持下,為了奪回叔父佔據的家督位和守護職而活動,雖然沒有一舉得勝,畢竟以跟叔父表面上的和解,得歸美濃。 道三,是他隱退入道之後的號,曾用名長井規秀、斎藤利政,後改名秀龍。 一說是他在父親一代就已經是土岐家臣,即永正年間頼藝一派的家臣長井新左衛門尉之子。 他先是借土岐家的內鬥,積極支持土岐頼藝一派,當頼藝坐上守護之座後,又明裏暗裏剷除多位国中有力人物(包括他最終的苗字來源,守護代斎藤家)而逐步提昇地位,名字也隨之一改再改。 頼藝父子逃往南邊的尾張国,得到該州權臣織田信秀的收容,還說得信秀出兵美濃。 原本就一心打倒叔叔頼藝的土岐頼純也乘機以越前朝倉家(家督時為孝景)之兵打回來。 道三為了與朝倉家停戰,同意扶持土岐頼純為守護,還嫁女兒給頼純。 但年青的頼純坐上守護座未久又暴死。 於是道三成為實際的美濃国主。 確實的是,道三掌權後屢屢用莫須有的嚴重罪名加酷刑處死數位国中門閥和老臣。 對此學界傾向於否定,一是說明義龍出生的具體日月的材料時隔已久(江戸時代的)不可盡信,二是因為一份道三和近江大名六角義賢(承禎)的通信記錄顯示,道三究竟承認義龍是他親兒子的。 但道三確有打算改立繼室小見之方(明智氏)所生的孫四郎,最終在家臣們普遍堅決反對廢長立幼的壓力下還是傳家督之位給了28歲的義龍。 某種程度上也是美濃国人對道三的暴政和苛酷人事的反彈。 美濃由此重新陷入了動盪。 而明智家因為是道三妻子小見之方的娘家,站在斎藤家新一代的對立面,也成為鬥爭的失敗者。 光秀的叔叔明智城主明智光安敗死,而光秀帶領一族逃離了美濃,來到相鄰的越前国。 這之後,幾乎十年的時間,光秀的經歷,從史學方法論而言成了一片空白,因為有提及的都不是可以輕易採信的材料。 即使是這些稗官野史之間也存在著相當大的出入。 而《明智軍記》等各路軍記物語裏的說法給今人的感覺,毫不誇張地講,可以想見20世紀末以後誕生的各種養成RPG電子遊戲虛擬的戦国世界,簡直就是以此類故事建造的: 光秀以浪人之身,遊歷諸国,遍訪強者名人,學習各種技藝以提昇能力,求聞達於諸侯。 明智光秀之所以投奔越前,一是朝倉氏跟美濃土岐氏、原守護代斎藤氏都有親戚關係,也曾經參與到美濃国內的爭鬥中,但這層關係對光秀幫助應該很有限,更關鍵的估計還是因為這裏剛剛發生朝倉家跟加賀国一向宗信眾武裝的戰爭。 對於浪士,有仗可打的地方才有機會出頭。 據說就是那些與鉄砲相關的技能和主張,光秀得到了朝倉氏家督朝倉義景的任用。 越前東邊的加賀国,在戦国時代的歴史尤為特殊。 以寺院為領導單位的核心和象徵,由信仰該宗的土豪和各級下層武士們為實際執行者,甚至運作著勝利之後的各種政府功能和社會管理。 並且相信,他們獲得了某種程度的成功:驕奢淫逸又巧取豪奪的統治者被移除,意味著苛雜減免,有利於占社會中大多數的農村居民的境遇改善。 從某個角度計算這應該是真實的,但其中也存在另一面。 大聖寺也好,金澤御坊也罷,甚至大坂的総本山本願寺也如是,日本的寺社、門跡作為貴族後裔主持的,自古以來得到京都朝廷乃至幕府都承認其權利的土地所有者,他們的僧兵及其信眾武裝,都是維護其產權和相關利益的工具。 更何況,因為對佛法的理解有不同,浄土真宗偏偏又是以認為僧侶也能成家生子而著稱的,蛙之子是蛙,和尚的兒子還是和尚,然後僧職也根據血緣關係來傳承了。 某種意義上這成了一種特殊的封建政治集團。 於是也不怪乎,越前和加賀的這場戰爭以大坂総本山本願寺和朝倉家的聯姻和睦,朝倉義景之女與本願寺法主顕如(光佐)的長子教如(光寿)定親,暫告一段落。 光秀的軍事才能開始顯現,就是在越前與加賀一向宗的戰爭中。 然而,以上《明智軍記》裏的這些看似能夠解釋光秀的軍事素養和經驗從何而來的傳說,最大的問題在於,朝倉家與加賀一向宗宣告和解,斎藤父子之間的生死決戰(也就是光秀逃離美濃的起因),都發生在弘治二年(1556年)四月。 但是討論這些一向宗一揆或寺社武裝是什麼性質,並不是一番無關光秀的贅言。 首先,光秀以後還要在別的地方跟他們打交道。 朝倉家和北陸道的一向一揆也沒有實現從此和睦相處。 而作為親歷者、見證者的光秀,一定有他的思考和結論。 事實上,他的想法成為了後世或許無法知道但最想知道的東西。 因為他最終的命運,乃至圍繞著他的爭議,也都跟這些社會中的衝突有著直接的關係。 弘治之際(1555—8年)的光秀應該沒有什麼太大的戰功得到朝倉義景賞識,也難說對朝倉義景懷有多少的崇敬和感恩。 於是才更能解釋後來的事情,因為他離開了越前。 至於是什麼時候離開的,則也成了難解之謎。 此外,伊達氏的主城遷往大崎地區是天正十八年(1591年),也就是30年後。 而毛利家建築広島城也是始於天正十七年,再過了兩三年之後才遷入。 然而,大概正是跌宕的經歷,使得光秀越發善感,或許還多愁。 《太平記》中土岐氏在鎌倉末期的祖先土岐頼貞,正是一位射箭神準,又能作歌的武士。 事實上光秀成為這個時期裏文采最好的武士之一,不僅見於當世文化名人的認可,他的作品的原件也留傳至今。 從中我們可以一覽光秀的書法。 明智光秀和歌短冊《見花》:盛開的花啊,朵朵開在樹梢上;勁風吹呀吹,吹向雪山——光秀。 旧侯爵蜂須賀家藏。 或許正因為光秀擁有的這種文人氣質,當另一個在傳統文藝方面頗有造詣的武士與他結緣時,他的命運走向了另一次轉折。 細川藤孝來自京都,是足利将軍家的直屬家臣。 不過,也正是這些紛亂讓他們連帶整個幕府走向衰弱。 自天文年間(1530年代)的細川晴元以後,這個家族被其家臣三好氏架空,将軍家也因此更無實權。 而光秀和藤孝相遇的時間和地點,也是說法不一。 兩人相識後一見如故。 光秀還經藤孝介紹加入了将軍足利義輝的家臣団。 此說如今已經得不到相信了。 但說光秀曾經侍奉不止一個将軍,卻也是有古說的。 在有的版本裏,甚至說光秀還一度只是藤孝的部下。 如此論資排輩的幕府中,若光秀以明智家甚至說土岐家出身來投靠将軍,卻只到這個級別,甚至還在細川藤孝之下,也委實可憐了。 《細川家記》的說法則是永禄八年後,藤孝來到越前,向朝倉義景求援,同時認識了負責接待他的光秀。 藤孝此來之所為,則是他的主家、此時也在顛沛流離中的足利義秋。 足利義秋是永禄八年(1565年)遇害的幕府将軍足利義輝的胞弟,謀求接任将軍職。 然而回歸京都後繼續試圖重振幕府權威的義輝,卻在實際統治著畿内諸国的三好家的家督三好義継及其家中實權人物三好長逸、三好宗渭、岩成友通、松永久秀發動的政変中敗死。 朝倉義景雖然表面上歡迎義秋的到來,好吃好喝招待著,但談到出兵京都時,卻又顧左右而言他。 崇尚京都文化而聞名的朝倉家,似乎只是把義秋這些從畿内來的人當作秘辛趣聞的提供者或者風花雪月的玩伴。 從政治上而言,這時候朝倉家也再次面臨著越前領內和加賀国的一向一揆的壓力。 至於光秀,據說他很不滿義景對義秋的消極態度。 而藤孝的積極奔走,與之恰好形成鮮明對比。 太多的細節難以盡信,但除去各種與重大事件的時間明顯不對的成分,光秀一定在這段時間裏努力提高自己作為一個武士的能力,否則他也不可能先後成為兩位(或者該說三位)大人物都是幾乎一次面試就決定錄用的人才。 就是在這段光秀事蹟不詳的將近十年的時間裡,即將扭轉格局的因素在本州中南部一個當時還不甚起眼的地方悄然發生,那裡就是光秀的故鄉美濃南邊的尾張国。 尾張會成為影響整個格局的策源地,在歷史上是空前的,令時人意外,後世看來也有些偶然。 四百年前源義朝,即鎌倉幕府初代将軍源頼朝之父,在這裏敗死,但總算不得一處出將相的地方。 尾張的織田家和越前的朝倉家一樣,也發源於越前国,本都是斯波氏在越前的臣下,因為応永年間(15世紀初)主家斯波義重兼任了尾張国守護,才遷入尾張為守護代。 織田家也隨之分成兩大系、(至少)三大派相互敵對了30多載。 甚至如愛知郡那古野城主織田信秀這樣,最終影響力遍及尾張南部和東部,較為得勢一時的人物,卻也先後敗給斎藤道三(天文十三,1543年)和今川義元(天文十七,1548年)的,看起來似乎尾張的武士和軍隊都談不上是當世的強兵智將。 直到一個人出現完全刷掉這些舊印象,那就是織田信秀的嫡子織田信長。 他的崛起宛如一聲驚雷然後刮起的一場風暴,席捲日本中部乃至可以說全國。 而這個信長,永禄之前的光秀就應該不陌生。 完整内容见blog.

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越前・若狭御城印巡り!~福井県の明智光秀ゆかりの地&戦国スポットと楽しむ~

明智 光秀 越前

スポンサーリンク 明智光秀の最期 明智藪への行き方 明智光秀は本能寺の変で主君である織田信長を討った、戦国時代の武将です。 天下をとったその後すぐに、秀吉に 天王山の戦いで破れてしまいます。 坂本へ逃げる途中に、最期を迎えた場所が 小栗栖です。 まいまいポケットをガイドに小栗栖へ訪れてみました。 明智藪へ行くには、 地下鉄東西線の「石田駅」が最寄りの駅となります。 石田駅は、京都の市内からだと、醍醐駅の次です。 東西線の最期の駅、六地蔵の一つ手前です。 案外早く行けますよ。 石田駅2番出口から、 明智藪まで歩いて15分くらい。 ちょうど良いお散歩になります。 石田駅から、山科川の方に向かってください。 駅を出て最初の方向がわからないと、なかなか進みませんよね。 まずは川が目印です! 明智藪への道は地図を参考にしてください。 大河ドラマのブームで、控えめではありますが、随所にのぼりを見ることができました。 あまり迷うところはないと思います。 スポンサーリンク 明智光秀の最期 明智藪の見どころ 私は今回、まいまい京都のアプリ「まいまいポケット」の、 「【小栗栖】明智光秀・最期の謎!歴史研究者とたどる、戦国時代の小栗栖」という回をダウンロードして散策することにしました。 地図と連動しているので、ガイドを聞くポイントもわかるようになっています。 ガイドさんは、 谷口拓さん。 醍醐・小栗栖地域の歴史研究者さんです。 マニアックなコースなので、ガイドがあるととても理解が深まって楽しいです。 石田駅を出発し、まずは山科川にかかる橋の真ん中で山に向かってガイドを聞きました。 ざっくりとした地形を説明され、山の向こう側に光秀が本当は行きたかったとされる坂本城があるということで、もう気分は戦国時代になってきました。 土地勘があると、余計に話にひきこまれますね。 次が楽しみです。 途中で、 小栗栖城跡が紹介され、なんとなく当時の村の雰囲気を想像することができました。 地形を生かした山城で、村の横にお城があったようで、小栗栖の地域は 飯田氏が支配していたとのこと。 諸説あるようですが、飯田氏によって光秀は討たれたのではないかという説もあるようです。 こちらが 明智藪です。 天正16年6月13日に明智越からふもとに下りてきたこの藪の中で、落ち武者狩りの百姓によって討たれたと言われています。 こちらの絵にあるような感じですね。 この後、勧修寺にて首が見つかったと言われています。 スポンサーリンク この日は竹林が焼かれていて、炭のいい香りがしていました。 ちょっと不気味な雰囲気。 明智藪に来る前は、光秀は 明智越とよばれる道なき道を越えてきたようです。 本能寺の変の後、山崎の地で秀吉との戦に負け、この道を通って小栗栖にやってきたと考えられています。 明智越からは、小栗栖の村がよく見えたのでしょうか。。 実際にこの土地でそのようなことが起こったと思うと、ちょっとドキドキしました。 明智藪に行く手前には、 小栗栖天満宮があります。 うっそうとしている藪の中。 このあたりもきっと、光秀は通ったのでしょうね。 さいごに まいまいポケットのガイドで、小栗栖に行ってきました。 明智光秀の最期の地である 小栗栖に思いをはせながら、明智越に寄った後、明智藪まで行ってきました。 坂道もあり少々大変なのですが、ガイドのおかげで楽しい歴史散策ができました。 ポイントポイントで解説が入るので、理解も深まり、実際にその地で聞くので興味が広がります。 おすすめです!.

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