小早川 秋声。 小早川秋声 月図 春夏秋冬用の盆栽用掛軸

加島美術が従軍画家の小早川秋声展、「国之楯」など、松竹京子らトーク

小早川 秋声

加島美術で8月31日から9月16日まで開かれる「小早川秋声ー無限のひろがりと寂(しず)けさと」に展示される「国之楯」。 陸軍が注文したが、最終的に受け取りを拒否した「国之楯」は1943年に完成後、題名を2度も変更し、絵にも手を加えて、1968年に最終的に「国之楯」として完成した。 大正から昭和にかけて活躍し、「国之楯」をはじめとした戦争画で知られる日本画家、小早川秋声(こばやかわ・しゅうせい、1885-1974)は、「従軍画家」として戦地に赴き、従軍中の兵士の「日常に寄り添った静的な戦争を描」いた。 加島美術によると、小早川秋声の兵士への「目線は慈しみと尊敬に満ち、激しい描写よりもかえって観る者の心の深い部分に直接訴えかけ」るという。 ある種「無常のもの」として人の生死を捉え、戦争の残酷さや悲惨さを静かに見つめ、自身の息子と同年代の兵士をいとおしみ共に悲しんだ記憶が、作品として残っているかのようとしている。 小早川秋声は画壇に属さず、画商を通さなかったために、その画業に関する資料が少なく、展示会などでまとまって作品を見ることができる機会も少なかったという。 今回は戦争画だけではなく、数々の洋行の経験が活かされた風景画なども展示する。 また、戦時中、陸軍省が発注しながら、受け取りを拒否した「国之楯」も披露する。 これらの作品はいずれも展示ケースなしで、直接鑑賞できる。 また、小早川秋声没後25年の1999年に編さんされた画集「秋声之譜」 企画・日南町美術館 発行・有限会社米子プリント社 を会期中に限り、通常定価3500円のところ、2000円で販売する。 同じく展示される「巴里所見」。 絵に画家の感じた楽しい雰囲気が漂っている。 ウイキペディアによると、「国之楯」(1944年、1968年に一部改作)は日本兵の遺体を全面に取り上げた、戦争画の中でも異色の作品で、黒一色で塗りつぶされた背景に、胸の前で手を組んだ日本兵が大きく横たわっている。 顔には「寄せ書き日の丸」が深く覆いかぶさり、この名も知れぬ兵士がお国のために死んだ事実が明瞭に示される。 当初は「軍神」という題名で、遺体となって横たわる兵士の頭部背後には金色の円光、背後には桜の花弁が降り積もるように山なりに描かれていた。 元々は天覧に供するために陸軍省から依頼された作品で、師団長や将校たちは、この絵の前で思わず脱帽・敬礼し、搬出を手伝いに来た女性は絵を前に泣き崩れたという。 しかし、戦死者の画は戦争表現や「死の美化」に必須な一方、厭戦感を引き起こすとして、軍部・美術家共にひじょうに神経質な命題で、最終的に陸軍省は本作の受け取りを拒否し、小早川秋声の手元に残された。 このため、小早川秋声は背景を黒く塗りつぶし「大君の御楯」と改題、1968年に「太平洋戦争名画集 続」(ノーベル書房)に収録される際、一部改作して「国之楯」と再び題を変えて、現在の状態になった。 こうした改題・改作は、戦中から戦後の社会通念の変化に伴い、尽忠報国から追悼・哀惜へと作品を転化させる操作とみられる。 小早川秋声は1885(明治18)年兵庫県神戸市生まれ、父親が鳥取県の光徳寺住職だったが、母親の実家、神戸市の九鬼隆義(くき・たかよし、1837-1891)子爵邸内で出産された。 1894(明治27)年に9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入り、1900(明治33)年に務めを終え、光徳寺に帰郷するも、画家になる夢を捨てられず、寺を飛び出し、神戸の九鬼家に戻った。 1901(明治34)年に真宗高倉大学寮(現大谷大学)に入学、1907(明治40)年に特科隊一年志願兵として騎兵連隊に入隊、陸軍予備役少尉になり、その後の年次訓練などで大正期に陸軍中尉に昇進している。 1905(明治39)年4月に20歳で四条派に属する、後に京都絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授になる谷口香喬(たにぐち・こうきょう、1864-1915)の画塾「自邇会」に入り、1909(明治42)年に京都絵画専門学校開設の年に入学するも、同年に退学してしまう。 水墨画を学ぶため中国へわたり、1年半ほど過ごし、中国の教育家、厳修(げん・しゅう、1860-1929)邸に寄宿しながら、北京皇室美術館で東洋美術を研究し、その合間に名勝古跡を巡る。 1912(明治45)から日本美術協会展に出品する。 1915(大正4)年に山元春挙(やまもと・しゅんきょ、1872-1933)主催の「早苗会」に参加、のちに同会幹事を務めた。 1914(大正3)年の第8回文展で初入選、以後、文展に4回、帝展に12回、新文展に3回入選し、一方で九鬼家の援助で経済的に恵まれ、当時の日本人としては異例なほど頻繁に海外へ出かけている。 1914年から3年間、たびたび中国へ渡って東洋美術を研究し、1920(大正9)年からの3年間はヨーロッパを外遊、1921年にベルリン国立アルトムゼーム研究室で2年学び、帰途にはインドやエジプトにも立ち寄った。 1926(大正15)年3月から7月にかけては、日米親善のためアメリカに渡っており、絵は文展・帝展の中でも異彩を放ち、中国やヨーロッパに題材を求めた異国情緒漂う作品も珍しくない。 私生活では1922(大正11)年に渡欧中ながら結婚、1923年の帰国後、京都市左京区下鴨森前町に豪邸を建てる。 1931(昭和6)年の満州事変後から1943(昭和18)年まで、関東軍参謀部、陸軍省の委嘱により、従軍画家として中国や東南アジアなどの戦地に派遣され、戦争画を描いた。 一般に画家の従軍が本格化するのは、1937(昭和12)年の日中戦争後であり、小早川秋声の従軍はかなり早い。 一般に戦争画は、華々しい戦闘場面や勇壮な日本兵の活躍を描いた作品が多いが、小早川秋声の作品にはそうした絵があまりなく、戦場での兵士の苦労や、兵士の死を悼む作品が散見される。 終戦時の小早川秋声は、自分が「戦犯」として捕らえられるのを疑わなかったという。 小早川秋声は将官待遇で従軍していたため、戦地でもぜいたくができたはずだが、共に戦う者として自身にも厳しい従軍生活を課していた。 従軍生活の長さからくる凍傷で体調を崩し、1944(昭和19)年に肺炎をこじらせ、1946(昭和21)年に日展委員となるも、多作や大作がこなせるまでは回復せず、戦後は依頼による仏画を手がけたといわれる。 1974(昭和49)年に老衰により亡くなった。 享年89歳。 9月7日15時から小早川秋声研究者の松竹京子(まつたけ・きょうこ)さんと「現代美術資料センター」を主宰する笹木繁男(ささき・しげお)さんによる「小早川秋声という画家:その画業」と題してトークイベントを開く。 モデレーターは泉屋博古館分館(港区六本木1-5-1)の分館長の野地耕一郎(のじ・こういちろう)さんが担当する。 開場時間は10時から18時。 入場はトークイベントも含めて無料。 トークイベントは事前に電話などで申し込む。 注:「小早川秋声」の「声」と「国之楯」の「国」はいずれも正しくは旧漢字です。 名詞は原則として常用漢字を使用しています。 注:「谷口香喬」の「喬」は正しくは左側に「山」へんがつきます。 カテゴリー: 作成者:.

次の

無題ドキュメント

小早川 秋声

海外のお客様• 作品は日本から直接送ります。 通常は日本郵便(EMS)を使用しますが、ご希望があればFedexやDHLで送ることもできます。 発送後トラッキングナンバーを連絡させていただきますので、作品がどこにあるのかお客様の方でも追跡確認していただけます。 保険をご希望の方はご相談ください。 特別サイズの大きい作品については、以下の送料一覧以上の送料を請求させていただく場合があります。 地域別送料 アジア:2000円 オセアニア、北米、中米、中近東:3000円 ヨーロッパ:3500円 南米、アフリカ:4000円 *注意• Fedex、DHLで郵送ご希望の場合は送料が変わります。 まずはご連絡いただきその旨をお伝えください。 追って送料をお伝えさせていただきます。 上記の送料は作品1点あたりの送料です。 購入作品が2点の場合は、送料は2倍になります(送料が重さで計算されるため)。 3点以上お買い上げの場合は送料無料にさせていただきます。 作品輸入に関する税制につきましては、お客様ご自身でお調べいただきますようお願いいたします。 輸入に関する課税がある場合はお客様でご負担いただき、当店は保障いたしかねますのでご了承ください。 Attention:We ship our items from JAPAN. You may be charged fee at the custom in your country. We can not know whether your package will be charged or not, and how much it will cost. In any case, the customs duty is the recipient's responsibility. 作品お受け取り後(追跡記録で配達完了後)7日以内に返品のお申し込みが あった場合、返品の受け付けおよび作品代金全額を返金させていただきます。 (返送にかかる送料はお客様負担でお願いいたします。 ) 返送の際は梱包に十分注意していただきますようお願い申しあげます。 お受け取り後(追跡記録で配達完了後)8日以降の返品は受け付けできませんのでご了承ください。 掲載する作品は十分に精査しておりますが、ご購入いただいた作品を大学などの学術機関や公的な美術館の担当学芸員に見てもらい、真筆に疑問がある作品と判断をされた場合は、いつ購入されたかに問わず、以下の手順で返金手続きを取らせていただきます。 ご連絡いただき、どの機関の誰に見てもらい、どんなご意見であったかをお教えください。 作品を返送してください(返品に掛かる送料はお客様負担でお願いいたします)。 作品を受け取り後、返金手続きを取らせていただきます。 今後の当店が扱う作品の品質向上と、古美術研究活動の一環として作品を鑑定された方に連絡を取らせていただく場合があります。 当店では独自の鑑定証を発行していません(上記の通り真筆保証はしております)が、東京美術倶楽部鑑定委員会をはじめ、日本の近代作家の真筆作品に、その作品が真筆であることを証明する『鑑定証』を発行する鑑定機関があります。 大手オークション会社はこの鑑定証のない作品は出品を受け付けません。 個人で作品を楽しむには特に鑑定証が必要だとは思いませんが、ご希望でしたら鑑定機関に連絡をし、鑑定および鑑定証発行手続きをさせていただきますのでお申し付けください。 鑑定機関による鑑定および鑑定証発行可能な作品にはその旨を作品詳細に明記しております。 鑑定および鑑定証発行は有料です。 鑑定料(鑑定証発行料)は作家によって違いますので、鑑定希望のご連絡をいただいた方にその都度お伝えさせていただきます。 万が一偽筆であると鑑定された場合は、鑑定料は当店で負担させていただきます。

次の

小早川秀秋

小早川 秋声

日南町美術館 1995年、美術雑誌『芸術新潮』で戦争画が特集された際に巻頭カラーで「國之楯」が紹介されました。 当時は地元にゆかりのある作家として、小早川秋聲を知っていた人は鳥取県の美術関係者の間でも多くはなかったそうです。 また県下に作品があることもわかっていませんでした。 日南町美術館が入る日南町総合文化センター。 背後に山がそびえる。 「けれども、その後郷土にゆかりのある作家のグループ展を開催しようと考え、調査を進めていくうちに、日野郡でも小早川秋聲の作品をお持ちの方が結構いらっしゃることがわかってきました。 また、そのグループ展で小早川秋聲の作品を展示したところ、ある日、作品の前で和服姿の女性がじっとご覧になっているのに気がつきました。 気になって話しかけたところ、その方が小早川秋聲さんの長女の山内和子さんだったのです。 その後、山内さんにご協力いただいて、2000年の『没後二十五年 小早川秋聲展』が実現しました」(日南町美術館 主任学芸員・浅田裕子さん) 日南町美術館では2000年以降、ほぼ毎年のように小早川秋聲の企画展が開催されてきた。 一方で、同じように山内さんと知り合い独自に小早川秋聲について調べていた研究者の松竹京子さんとも縁がつながり、以来、松竹さんの集められた資料を整理・保管し、新たに発掘された作品を展示するなど、二人三脚で小早川秋聲に関する仕事を行ってきたそうです。 また2000年の展覧会の際には、地元の印刷会社が援助してくれたおかげで、画集の刊行もできました。 大手出版社の手がけた画集がない中、小早川秋聲の世界をふかんすることのできる貴重な資料です。 2017年には小早川秋聲の詳しい年譜も完成。 美術館に来られた方は無償で持ち帰ることができるそうです。 右手に見える作品は「出陣の前」。 出陣前、抹茶をたてて精神を落ち着かせた様子が描かれている。 「小さな町の美術館ですが、いろんな方の応援があって活動が成り立ってきたのだと思います。 何より、松竹先生による膨大な量の調査がまずあって、そのお手伝いをしてきたと感じています」(浅田さん) 美術館で管理している小早川秋聲の作品のほとんどは寄託ですが、その数は400点近くに上ります。 「淨魂(突撃)」(部分)。 小早川秋聲は、戦地の最前線に同行する中で絵を描いた。 全館を使ってさまざまな企画を行わなければいけないため、常設展示はありません。 2019年はもう小早川秋聲の展示はありませんが、2020年にはまた展示を検討しているとのことです。 「国之楯」。 小早川秋聲はこの絵を描くとき長男に日章旗をかぶせてデッサンをしたという。 日南町美術館だけで買える小冊子と画集は小早川秋聲について詳しく知ることのできる貴重な文献。 町に残る小早川秋聲作品1〜日野町公民館 小早川秋聲は日南町の隣りの日野町にある光徳寺の長男として生まれました。 もっとも、生まれた場所は母親の実家の兵庫県三田市で、その後も9年間は母親の実家で育っています。 その後、僧籍に入るため、本山である京都の東本願寺で修業。 光徳寺のある日野町に転居したのは1899(明治32)年、14歳になってから。 けれども1901(明治 34)年、16歳のときには、再び京都にある高倉大学寮(現在の大谷大学)に入っていますし、さらには僧ではなく絵描きになりたいと1905(明治38)年からは京都の画家に師事。 以降はずっと京都を拠点に活動しました。 つまり郷里の日野町にいたのは限られた年月ということになります。 小早川秋聲の実家がある日野郡日野町黒坂地区の日野町公民館に、小早川秋聲の絵が展示されている。 跡を継がなかったため父から勘当の扱いを受け、実家の光徳寺には行きにくかったようですが、兄弟が日野にいたこともあり(注)、ときどきは帰ってきていたとのことです。 また戦中戦後、画家として成功した後には滞在することも度々あったようです。 郷里の日野町はもちろん、山陰地方に愛着があり、よく旅で訪れたとも言われています。 注……小早川秋聲の母は一女五男をもうけた。 また父親の小早川鐵僲(てっせん)は秋聲の母親と離縁した後に再婚したので、異母兄弟まで含めると多くの兄弟がいた。 日野町公民館の2階には小早川秋聲の10代の頃の作品が掛けられている。 こうした滞在の足跡により、小早川秋聲の作品が残っていたようです。 そのひとつが日南町公民館にある「山中鹿之助 三日月を拝するの図」。 現在、本物は日南町美術館に寄託されていますが、複製が掛かっています。 複製であるが見応えのある作品。 本物は日南町美術館に寄託されている。 こちらは1904(明治37)年頃の作と言われ、すなわち秋聲が10代で黒坂に居た頃に描いた絵のようです。 山中鹿之助は出雲の守護・尼子氏に仕えた戦国武将で、尼子氏再興のために「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。 その様子を描いた歴史画ですが、真に迫った祈りの表情と言い、これが10代の頃に描いたとは驚きです。 山中鹿之助の祈りの表情に見入る。 町中に残る小早川秋聲作品2〜日野町立黒坂小学校 公民館から歩いて5分の日野町立黒坂小学校にも小早川秋聲から寄贈されたという作品が2点あります。 これらも今では実物は日南町美術館寄託ですが、複製が校長室に1点と図書室に1点、掛けられています。 日野町立黒坂小学校。 校内に小早川秋聲の絵が掛けてある。 日南町美術館・浅田さんによれば、地元に戻ってきたときに小学校に寄贈したのではないかとのことです。 図書室にある「露営の図」は戦争を題材にした作品です。 小早川秋聲は20歳のときに日露戦争に見習士官として従軍し、22歳のときに自ら志願して陸軍に入隊しています。 対照的に、校長室にあるのは第二次世界大戦後、戦争画の制作をやめた秋聲が、観音像や達磨(だるま)など宗教的なモチーフを主に描くようになった、晩年の作と思われます。 達磨を描いた本作は戦後の作品と考えられる。 なお、銘のところに「山陰客舎」とあり、これは山陰に来たときに描いた絵であることを示している。 図書室に掛けてある複製画「露営の図」は、10代の頃の貴重な作品。 なお、小早川秋聲のすぐ下の弟の小早川好古(こうこ)も日本画家ですが、大正初期の数年、黒坂尋常高等小学校(現在の黒坂小学校)で教諭として働いていた時期があったとのことです。 校舎入り口すぐの場所には、以前2019年1月放送の「日曜美術館」で特集した山岳写真家・田淵行男の山岳と蝶の写真が。 実は田淵行男もここ黒坂の生まれで、黒坂小学校は田淵の母校にあたる。 光徳寺 小早川秋聲の実家である光徳寺は、今も黒坂地区にあります。 前述のとおり秋聲は長男でしたが跡を継がず、絵描きになる道を選んだために父親から勘当され、その後光徳寺には行きにくかったようです。 黒坂の町に帰ってきたときは実家ではなく、近所にあった高野屋旅館を常宿にして絵を描いていたことがわかっています。 真宗大谷派・光徳寺。 明治42年に現在の場所に移転した。 本堂は明治から昭和にかけて活動した宮大工の名工・富次精斎による。 今も光徳寺では小早川の姓を継ぐご住職がお務めをされています。 現在のご住職である小早川昭謙さんに話を伺いました。 「秋聲は跡を継がず、その後疎遠になってしまったので、弟の好古さんの方が寺としては親近感があります。 本堂にあるふすま絵も、好古さんが父・鐵僲の25回忌にあわせて描いてくれたものです」 光徳寺本堂を彩る襖絵は小早川秋聲のすぐ下の弟、小早川好古(こうこ)の手によるもの。 もっとも、小早川秋聲の子どもたちとは親交があった模様です。 「秋聲の長男の隆さんは、日野町の鯉料理が好きだと言って、時々寄られていましたね(笑)。 山内和子さんは、ご自身が藍染めでつくったという観音様の絵を寺に寄贈してくださいました」。 また和子さん・隆さんからそれぞれ1点、小早川秋聲の掛け軸が寄贈され、今は寺で保管されているとのことです。 1948年、小早川鐵僲の25回忌に合わせて小早川好古が奉納した襖絵。 秋聲が光徳寺の跡を継がなかった結果、一番下の妹が継いだ。 その妹を小早川好古が描いた作品。 日野町はもともと鏡山城という城があったため、現在も城下町のたたずまいが残る。 日野町・日南町共に公共交通では便利とは言えず、JR伯備線を使うと1時間に1本程度です。 けれども小早川秋聲の展覧会が開かれている折には、そのためにわざわざ足を運ぶ価値があると思います。 また鳥取県立博物館、公益財団法人渡辺美術館(共に鳥取市)、米子市美術館、山陰歴史館(共に米子市)などでも小早川秋聲作品の収蔵があります。 うまく展示のタイミングが合って一緒に見に行けるようだとなお充実した旅ができるのではないでしょうか。 自然が豊かな日野町や日南町はホタルがきれいに見られる場所としても有名。 ヒメボタルとゲンジボタルの両方が一度に見られるのが珍しく、川の上にゲンジボタル、林の中にヒメボタルという光景に遭遇できる。 9月16日まで。

次の