サピア ウォーフ の 仮説。 言語によって思考が決まる?言語相対論/言語相対論/サピア・ウォーフ仮説における意味の違い、背景、批判、経緯

「サピア=ウォーフの仮説」とは?バイリンガル子育てをしてる親の目で見てみる

サピア ウォーフ の 仮説

文化とは何か,文化を研究するとは 目次 文化とは何か 文化とは何か 文化人、文化勲章、文化の日などというけど、文化とは何か。 とりあえず、反対語を探してみると、文理とか文武とかいうことばを思いつく。 文科の反対は理科。 「科」だから漢字は違うけれど、この場合は理科とか数学と対立するものが「文」なのでしょうか。 「数学ができないから文転する」なんて言い方、今もするんだろうか。 文武は江戸時代以前の武士階級の分類でしょうね。 文武両道と称揚する場合もあるけれど、文弱の徒なんて非難する場合もあった。 文化系と体育会系は文武の名残なんだと思うけど、頭をつかうか体を使うかって意味なのかな。 だからこの場合は理科クラブや数学同好会、天文部もコンピュータ同好会も文化系に分類される。 「文武、文弱の徒」の名残なんだろうか、昔、中学校に入ったとき体育会系のクラブより文化系クラブを選ぶと、弱虫と思われるようで嫌だった。 日本国憲法 日本国憲法には 「第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 」とあるけど、この「文化的」をめぐっては裁判で問題になったこともある。 その内容は、生活保護法に基づき厚生大臣が定めた入院患者日用品費基準(当時月額600円)は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とした憲法第25条と、それを受けた生活保護法に違反するというもの。 訴訟の発端は、1956年7月、多年音信のなかった朝日茂の兄が福祉事務所の要求で月1500円の仕送りを約したため、翌月分から生活扶助としての日用品費を打ち切られたうえ、1500円から600円を引いた残り900円を医療費の一部自己負担とし、その残りの医療費についてのみ医療扶助を行うとする保護変更処分を受けたことにある。 一審の東京地方裁判所判決(1960年10月19日)では全面勝訴したが、二審の東京高等裁判所判決(1963年11月4日)は、日用品費月600円はすこぶる低いが違法でないとした。 上告後まもなく本人が死亡、養子の健二・君子夫妻が訴訟を承継して争ったが、最高裁判所大法廷判決(1967年5月24日)は、保護を受ける権利は相続できないとの理由で訴訟終了を宣しただけでなく、多数意見傍論は、最低生活をどう定めるかについては厚生大臣に広範な裁量権があるとした。 人間たるに値する生活を営む権利の保障を求める訴訟のゆえに「人間裁判」とよばれた10年にわたる朝日訴訟運動は、憲法第25条の実現を求めるその後の多くの社会保障運動の先駆として特筆に値する。 いくら50年以上前の物価とは言え、「文化的な最低限度の生活」の値段は一日20円だったわけだ。 国語辞典によると 1 権力や刑罰を用いないで導き教えること。 文徳により教化すること。 2 世の中が開け進んで、生活内容が高まること。 文明開化。 3 自然に対して、学問・芸術・道徳・宗教など、人間の精神の働きによってつくり出され、人間生活を高めてゆく上の新しい価値を生み出してゆくもの。 4 (他の語の上に付いて)便利である、ハイカラ・モダンである、新式であるの意を表わす語。 「文化竈」「文化住宅」「文化村」など。 明治以前には文化って言葉は「権力や刑罰を用いないで導き教えること。 文徳により教化すること」位の意味で年号になったりもしているけど、われわれにとって大事なのはこの意味ではなく、明治以降の翻訳語である。 ところで4番目の「便利である、ハイカラ・モダンである、新式である」という意味は、大正から昭和のはじめに使われた用例だ。 例えば渋谷のBunkamuraという東急本店にくっついた文化施設に残っているように、大都市近郊私鉄が沿線の宅地開発のキャッチコピーとして使ってたような意味だ。 でも、昭和の前半には好ましいニュアンスで使われていたので、日本国憲法が起草されていた昭和21年ころには新鮮な用例で、憲法の中に採用されたのかもしれない。 日本国憲法の用例で考えると、あるいは文武の「文」なのかもしれない。 「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の「文化的な」には、 (「文」=非「武」=平和)というニュアンスが込められているのかもしれない。 だとすると、日本国憲法の第25条は「すべて国民は、健康で 平和的な最低限度の生活を営む権利を有する。 」と読めて、憲法9条と呼応しているのかもしれない。 明治はじめにcultureの訳語として使われはじめ、中国語でもこの意味は借用されている。 多分韓国語でも。 定義 ヨーロッパ語 原義 ラテン語colo(耕作する、住む)の名詞形がculture。 だからcultureは「耕作、農業」と「教養」、「信仰」などの意味がある。 接頭語にagriをつけると、agricultureになる。 対立語はnatureで、cultureとは「自然を使いやすいように改変する」という意味になる。 個人についていうと、生まれたばかりの子を、自然状態=粗野な状態からではない状態に移行させること、つまり教育することになる。 cultureに「教養」の意味があることは知っての通り。 さらに個々人の教育をcultureと呼ぶんなら、個々の社会全体の教育をcultureと呼んでも良いわけだ。 そこでcultureという語は日本語訳で「教養」と「文化」という二つの意味を持つようになる。 欧米語では個々人に関してと集団に関してとcultureと一語を当てはめるけれど、日本語では二つの言葉に分けている。 さらにこのうちの「教養」の意味が「文化人」や「文化勲章」なんかに使われる「文化」である。 「教養人」とは言えるけど、「教養勲章」って制度はないですが。 UNESCOによる定義 文化は、社会的グループを特徴づける弁別的、精神的、物質的、知的あるいは情動的な特徴の総体からなると言えよう。 文化は芸術、文芸に加えて、生活様式、人間の基本権、価値の体系、伝統および信仰を包含する。 ) 「文化」は社会グループの約束ごとだとすると、考察の対象は、音楽、芸術、芸能、言語や文学、宗教、さらには法律、経済行為や衣、食、住なんかも文化研究の対象になる。 記号としての文化を考察の対象とする。 具体的な方法論としては、文化相対論、言語学、修辞学、レトリック、文化人類学、文学、芸術などの方法を紹介し、分析を考えてみたい。 色について 絵をかくとき日本人は太陽を赤く塗る(ことが比較的多いらしい)。 しかしアメリカなんかではお日様は黄色や白で塗ることが多い(らしい)。 たとえば、google imagesで「太陽 絵」と打ち込んでみると赤っぽい絵が、「sun drawing」でググってみると、黄色っぽい絵が出てくる。 日光の色は赤ではない。 じゃあなぜ日本人は赤く塗ることがあるんだろう。 日本人はずうっと農耕民族で天候を気にしてたから、夕焼けを眺めて観天望気(「夕焼けは晴れ」)してた名残なんだろうか。 青信号かgreen lightか? 日本では交通信号は「道路交通法施行令」で、「青色の灯火 一 歩行者は、進行することができる」と定義している。 ところが、あの青信号って青に見える? ひょっとしたら、この色名は古代以来の日本語の色名に制限されているのかもしれない。 上代日本語には色名には「あか」「あお」「しろ」「くろ」しかなく、それぞれ単に色名ではなく「あかるい」「くらい」「しるい(いちじるしい)」のように明度や彩度を表現していたらしい。 灰色の鷺や馬を、あをさぎとかあをうまというように、「あお」は灰色をあらわすこともあって、「あおい」は「ぼんやりとした」くらいの意味だったらしい。 (『広辞苑』、古語辞典とか参照) とすると「お日様をあかく」描くのは「お日様をあかるく」描くってこと、なのかもしれない。 あかるくもくらくもない中間の青や緑はどちらも「青い」と表現されていたし、今もそう表現されている。 青信号はそんな例だし、「高齢の祖父たちは私たちが緑色であらわすものをよく青色だという。 」と、別の授業でコメントをもらったことがある。 でも「青々とした緑」とか、「青田刈り」なんて表現があるが、あれは「明るい緑」じゃなくて「ぼんやりした緑」の意味なんでしょうかね。 「青臭い議論」とか「青年」とか「青春」とか言うから、「若い」、「新しい」という意味もあったんでしょうね。 言葉がないと色が区別できないのは、日本のおじいちゃんに限ったことじゃない。 名前がないと色の区別は難しくなる。 虹の色の数は社会によって違っている。 例えばイギリスでは、「わたしは最近まで藍色を識別できなかった。 それはわたしだけではなかったーわたしが話をした人の半分は識別できなかったーが、それでもいつも気にはなっていた。 かのアイザック・ニュートンによれば虹には七色あるのだが、わたしには六色しか見えない。 (藍色はあまり使われなかった色名である. 辞書にはあるが、会話ではほとんど出てこない。 )」「名前のない色を見ていないということではない。 ただ、名前がない色と名前がある色は記憶のなかに保管される方法が違う。 」(サイモン・イングス、『見る』、早川書房、2009年、328ページ)なんてこともある。 緑とグリーンもじつは違うかもしれない。 日本語で「みどり」ではなくあえて「グリーン」という場合がある。 「グリーン投資減税」とか「グリーン購入法」とかいうお役所言葉が多そうだ。 環境保護とか自然保護、地球にやさしい、というニュアンスを出そうとしているように思える。 でも、欧米語の緑とは意味がずれているかもしれない。 欧米には「緑の党」とか「グリーンピース」とかエコロジー政党や活動団体があって、みどりは環境に配慮したというイメージはもちろんある。 でもエコロジー団体がみどりを選んだ時のニュアンスは、ひょっとしたら日本語では抜け落ちているかもしれない。 「みどり」を使う時、赤信号に対応して緑信号の色として使っているはずだ。 つまり「赤=止まれ=禁止」に対して「緑=すすめ=自由」という含意(コノテーション)を含めているはずなのだ。 とすると、いろいろ規制することの好きな日本のお役所がグリーンってことばを使いたがるのはちょっと皮肉な気もする。 どうも色の名前は疑ってかからなければならないようだ。 サピア・ウォーフの仮説について エスキモーにはsnowはない? アメリカのアマチュア言語学者ベンジャミン・ウォーフが立てた、ことばが認識を規定するという仮説。 ウォーフは、インディアン(ネイティブアメリカン)のホーピ族の言語を研究し、報告している。 たとえば、ホーピ語ではwaterを表す総称はなく、状況によって違うことばによって表現される、逆に飛ぶものは総称でのみ呼ばれ、結果として飛行機とトンボの区別ができない。 またエスキモーのことばにはsnowに対応する総称はなく、状況によって別々の語で表現される。 またウォーフは、本業であった火災保険会社での経験から、ことばが行動を規定する例として、空のバケツの例を伝える。 工場で揮発性の液体を入れるバケツに煙草の吸殻を投げ込んで火事を起こす例があったのだが、きき取りによるとバケツは空だvacantと言われていたと気付く。 揮発性の液体を流した後のからのバケツは一見空っぽでも気体が残っていて危険な状態であることを工場の人も知らないことはなかったのに、空ということばで惑わされていたという。 ウォーフによれば「すべての概念体系が相対的なものであり、それが言語に依存している」(p. 156. 確かに、「ことば」が物や違いの存在に気付かせてくれることはある。 あたらしいことばを知って、そんな考え方もあるんだ、と気付くこともある。 でも言葉が先か概念が先かははっきりしない。 分類の必要があるから「ことば」が作られた例も多い。 英語ではriceと総称するものを、日本語では、田んぼでは「稲」、穀物の状態では「米」、調理済みの時は「ごはん」と呼ぶ、日本人はriceを総称することばを持たなくて、英語国民とは違うように見えているはずだ、と言われると、いや細かく分類しているだけで同じものとは認識していますよ、と言うに決まってるじゃん。 結局、ことばがあって概念が生まれるのか、概念がことばを生むのか、どっちなんだろう。 困ったことに、外界をどう認識しているか「ことばで」語ってもらわなきゃわからないから、私とあなたの間で、あるものが同じように見えているか、違うように見えているかどうかは、はっきりしない。 今日のまとめ 言語が概念を規定するという考え方を「サピア=ウォーフの仮説」という。 ウォーフは「言語はさまざまに違ったやり方で世界を分割する」とか「すべての(社会の)概念体系が相対的なものであり、それが言語に依拠しているということは明らかである」という。 この説は、子供の頃お絵かきで太陽を赤く塗ったり、緑にみえる信号を青信号と呼ぶわれわれには、正しいように聞こえる。 indigoを色名としてはあまり使わないためか青と藍の区別がうまくできないイギリス人にとってもそうかも知れない。 ものの見方や考え方はことばや育ってきた環境で「耕され」ているように思える。 耕されて育てられているから、ものごとは今そうあるようにしか見えない、考えられないように思える。 われわれはどう耕されているか、見て行きましょう。 イングス、吉田訳、『見る』、早川書房、2009• ウォーフ、池上訳、『言語・思考・現実』、講談社学術文庫、1993• ドイッチャー、椋田訳、『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』、インターシフト、2012• ホール(エドワード)、日高、佐藤訳、『かくれた次元』、みすず書房、1970• ローレンツ(コンラート)、日高訳、『ソロモンの指環』、早川書房、1987• 今井むつみ、『ことばと思考』、岩波新書、2010• 佐竹昭広、「古代における色名の性格」、『國語國文』、24• 鈴木孝夫、『ことばと文化』、岩波新書、1973 コメント集 ことばや色や記号などの認識の違いが思わぬ誤解を引起こした経験がありませんか。 大学という新しい社会に入って、あるいは徳島に引っ越してきて、それまでとは違う社会の考え方、慣習、ルール、ことばなどに戸惑った経験がありませんか? 戸惑った、驚いた、発見した経験を述べよ。 [青字は田島のコメントです。 ] 記号、ことば• 「空」と書いたガソリン缶の話に驚いた。 人は文字に影響されやすい。 「肌色」は国によって違う。 [そもそも「はだいろ」ということばはクレヨンなんかでは使わなくなっている。 あなたが幼稚園児だった頃はまだ言っていたかもね。 アイスクリームのことをケーキと呼ぶ人がいて、ケーキを期待して喜んでしまった。 エレベータで「五階です」を「誤解です」と聞こえて毎回笑ってしまう。 オノマトペが独特な友人がいる。 理解できているのか不安になったことがある。 ことばが認識を制約することは学んだことがある。 外国との大きな違いは記号が違うことが影響しているのではないか。 スマートフォンでやり取りすると表情が見えないので、伝えたいことが違う意味で伝わってしまった。 テストの答案に三角がついていて、あってますと言いに行ったら、先生は丸のつもりだった。 テストの問題文で「適当なものを選べ」とあって「適当」の意味を間違えて適切でない解答をした。 テニス部でボールが黄色いという人と黄緑という人に別れていた。 バイト先でご年配の方ほどのし紙や詞に厳格で、四個など数を気にして避ける人が多い。 マレーシアの英語で「彼女」と「女友達」を区別することが難しかった。 [むしろこれは日本語の問題ではないでしょうか。 日本語の「彼女」は人称代名詞のsheとしては使われず、ガールフレンドの意味で使われてるもんね。 英語では「よろしくお願いします」の表現がないこと。 Nice to meet you. は最初しか使えないし。 外国人がたくさんいる中で、ちょっと離れた友人を手招きしたら、あっちへ行けの意味だと誤解された。 外国人は温泉マークを見ても温泉とは認識できないと聞いた。 台湾に行ってきて文化の違いを感じた。 駅では飲食禁止だったり。 中国語を勉強して日本で言う青は藍だと知った。 中国から輸入した感じでも全く違うものを表す。 日本の地図記号は外国人にはイメージしにくいと知った。 違う立場に立って、自分だけでは気づけないものが見えてくる。 日本人はSNSなどで絵文字をよく使うが、外国人は少し違っている。 メールでは相手の表情がわからなくてニュアンスがわからない。 メールやラインで「いいよ」がyesかnoかわからず困った。 気候や歴史などの時代背景によってことばの扱われ方が違っているというのは外国語を学ぶ上で気にしなければならない。 牛の呼び方など、その言語特有の区別の仕方などにはその文化による必要性が現れている。 ことばについて考えることで背景も垣間見えると思った。 牛を部位によって細かく分類していることを知って驚いた。 犬とたぬきの区別がない国もある。 「ふわふわ」や「ぷりぷり」などの擬音語はどんな捉え方になるのだろう。 [日本語ではmouseもratもどちらもねずみ。 フランス語では蝶も蛾もpapillon。 私は普段文化の制約を受けていると感じたことがないのですが。 首を縦にふるか横にふるかでyes noがどこかでは真逆だと聞いた。 小泉進次郎のセクシーとか。 認識の違いは大きな問題になると実感。 料理を冷めたら食べていいよと言われたが「冷める」の理解がずれていた。 童謡の「おにぎりをにぎり、ちょっとつめて」を「おにぎり、おにぎり、ちょっとつめて」と勘違いしていた。 [え、そうなの?勘違いじゃないんじゃないの。 ] 方言• セコイが地元と意味が違ったので誤解を与えてしまった。 私はせこいは「ひきょう」の意味だと捉えていたので、会話でせこいと言われてびっくりした。 地元ではせこいはずるいという意味だが、徳島ではしんどいという意味で驚いた。 大阪出身者に「セコイ」というと「なんでオレがせこいねん」と返された。 友達とご飯を食べて「セコイ」と言ったら、どういう意味と言われた。 せこいは関西ではケチの意味なので、大学ではしんどいということにしています。 [「しんどい」もどちらかというと西日本限定のような気がする。 阿波弁なら「しんだい」という人もいて、「せこい」と「しんだい」は使い分けているのかもしれない。 徳島ではしんどいのことをえらいと言うが、通じなくて驚いた。 [えらいはひどいとか大変、さらに苦しいの意味が最初で、身分が高いの意味は江戸時代の後期かららしい。 岡山弁だと相手に距離を置かれた経験がある。 標準語よりきついのだろう。 頑固という意味でガイと言ったらわかってもらえなかった。 机を運ぶことを祖母に「つくえかいて」と言われて通じなかった。 県外の友人に今まで普通だったことばが通じない。 お腹がいっぱいのせこいとか。 県外者から「行ける」を色んな場面で使っていて差別できない。 行ける=大丈夫がわかりにくいというのは驚きました。 県外出身者と接して新鮮な方言が多く、伝わらない言葉もあり驚いた。 県外出身者と話して方言がうまく伝わっていなかったことに驚いた。 呼び方が違って集合場所を間違えたことがある。 香川と徳島でも方言は違って逆の意味になることもある。 高知の祖母に「戸棚にはんこがある」といわれて母に「戸棚に印鑑がある」と伝えて混乱が起きた。 あとでハンコとは半纏のことだとわかった。 地元と隣は「こぼれる」と「まける」の方言の境界になっていたので最初は戸惑った。 分類の必要があるから言葉があるというのは納得した。 方言が違って言いたいことが伝わらないこと。 大学では論文を書かなければならないこと。 方言だとは思っていなかったことばが通じなくて困った。 方言の違いを感じた。 関東や沖縄に行くともっと実感する。 徳島に来て「行ける」をよく聞く。 どこに行くのかなと思った。 徳島人に電車で来たのと聞いたら、汽車でと返された。 徳島人はすぐに「行けますか」と言うのが面白いと思った。 他県の人とディスカッションしていてイントネーションが違うと言われた。 播州弁を話すのですが、普段気をつけていてもきつい言葉遣いになってしまい怒っていると思われた。 神戸には坂が多いが、徳島の人が橋のアーチを坂と読んでいて驚いた。 アオムシとミドリムシは両方同じような緑色をしているのに名前が異なることを今日発見した。 オーストラリアでトイレの記号が日本と違って焦った。 色で識別できた。 日本は絵文字や記号が多いので海外に行ったときは大変だった。 [ピクトグラムは、言葉がわからない場合には役に立つじゃないですか。 オーストラリアでは青、赤の点滅、赤の順番だったので、国によって違うのかと驚いた。 トイレの記号が普通と逆で間違って異性のトイレに入った。 映画「キングスマン2」の冒頭シーンで友達には見えているのに自分には見えないということがあり、色盲であることを知った。 国によっては虹の色が違うというのは読んだことがある。 国によって色の認識が違うということが面白い。 数字や曜日に色のイメージなどが違うことがあった。 [数字に色がついてるの?]• 青と黒に見えたり、ゴールドと白に見えたりするしまのワンピースをは不思議。 赤いものを取ってと言われて探していたら、それはピンクのもので見つけられなかった。 待ち合わせをしているときに看板の色を緑と青と間違えて相手がどこにいるのかわからなかった。 信号の色は年が上の人ほど緑というとのことだったが、自分にも緑に見える。 [日本人は老人ほど青と言っていたものですが、今の高齢者もだいぶ緑と思っているのかな。 信号待ちしていて友人に「緑になったで」と言われて何を言っているのか理解できなかった。 外国人と歩いていて「信号が青だから行こう」と言ったら「緑でしょ」と言われた。 祖母が「アオムシ」というのでどんな青い虫だろうか思ったら、モンシロチョウの幼虫でがっかりした。 祖母が信号を「緑」といって疑問を抱いたことがある。 緑だけど「青信号」ということばが定着しているので疑問に感じたのだろうか。 小さい頃から青信号は緑なのに青と呼ばれるのが不思議だった。 幼児の頃信号機の青信号を緑と認識して、親に聞いたが曖昧な回答しか帰ってこなかった。 大学に入って教師が勉強を無理強いしないこと。 徳島の風習• クラクションを鳴らす車や傘差し自転車とか交通ルールに対する意識が低いと驚いた。 ゴミの分別が地元より細かくて驚いた。 徳島では車が細い道でもスピードが早いこと。 プラスチックごみを普通のゴミと分けること。 徳島では赤信号になっても車が来ること、一時停止を守らない車が多いこと。 徳島の自転車の運転の荒さに驚いた。 スピードが早く、信号無視、傘さし運転など地元では見ない。 徳島の人は一時停止をあまり気にしていなことに驚いた• 徳島県人は免許を取るのにこだわるが、県外人はそんなでもない。 夜に公園で阿波おどりの練習をしていたこと。 たくさんの場所で練習していて驚いた。 大学に入って• 大学では教室がないため人との付き合い方が変わった。 大学に入って高校よりも自由なこと。 宿題を忘れても休んでも何も言われないので楽ちんだと思ったがその分単位を落としてしまった。 大学に入って方言の地域差に今も悩まされている。 困ることもあるが奥が深いなと感じる。 大学はすべて自己管理で主体的に動かなければならないことに入学当初戸惑った。 大学生になってバイトで化粧しなければならなくて慣れませんでした。 高校までは化粧してはいけなかったので。 大学生になって自分で授業を選び時間割を作ることに戸惑いました。 高校時代と違って特定の子と一緒にいることが少なく、自分から話しかけていかないとやっていけない。 中学高校と恋愛禁止だったので、大学で男女が一緒にごはんを食べたり、隣に座って授業を受けているのが衝撃だった。 [恋愛禁止って校則に書いてあるの?日本の少子化が進むはずだ!] その他• とくにありません。 文化の定義が曖昧だったけど耕作と関係は新たな発見。 パンケーキ、日本のパンケーキはアメリカ由来だが、イギリス由来のパンケーキはクレープのように薄い。 子供の頃から引っ越しが多くて地域性の違いを感じてきた。 前の時間で文に対して論理的に反対しなさいという問題で、人と違う考え方をしていて驚いた。 文化を知ることはすべての分野で最も重要だ。 1016051192• 1019050662• 1019050841 徳島大学総合科学部 2019年10月.

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言語の思考(世界観)に対する影響力 (サピア・ウォーフの仮説) 【OKWAVE】

サピア ウォーフ の 仮説

言語相対性原理とは? 私たちは、何かを考えるとき、言語(言葉)を使うでしょう。 このとき、逆に、私たちの思考は、言語による影響を受けていると考えられます。 ですから、母国語が日本語の人と、母国語が英語の人とでは、物事を考えるときの傾向が異なる可能性が高いのです。 また、たとえ母国語を共有していたとしても、異なる語彙(単語)を使う人々の間でも、思考のありかたが異なるはずです。 実際に、異なる業界の人と会話をすると、単純に話している単語がわからないというよりも、考え方そのものに違いが感じられたりもするでしょう。 このように、言語が思考のありかたを決めてしまうという仮説のことを、特に言語的相対性原理(principle of linguistic relativity)と言います。 これが事実なら、言葉を異にする人々は、真の意味で、お互いの理解が進まないということになります。 この仮説は、アメリカの言語学者、エドワード・サピア(1884〜1939年)が構築し、その弟子であるベンジャミン・リー・ウォーフ(1897〜1941年)が理論として整えて発表したものです。 この師匠と弟子の2人への敬意を込めて、言語的相対性原理のベースになった理論を特に、サピア・ウォーフ仮説(Sapir-Whorf hypothesis)と言います。 言語のない思考は存在するか? ここで、サピア・ウォーフ仮説には、2つの立場が存在していることには注意が必要です。 一つは、言語がなければ、思考することもできないという立場です。 これは、言語によらない思考(例えばイメージによる思考)を否定する、かなり極端な立場です。 こちらの立場を「強い主張」と言います。 もう一つは、言語がなければ、人間的な思考の一部が働かなくなるという立場です。 こちらは、言語によらない思考の存在を否定するものではありません。 そのような、言葉によらない思考もあるけれど、やはり言語が持っている思考への影響は小さくなさそうだという立場です。 こちらの立場を「弱い主張」と言います。 言語によらない思考があることは、ほとんど直感でも理解できてしまうでしょう。 言語をもたない動物であっても、脳を持ち、思考をしていることは明白です。 人間であっても、言葉を身につけていない赤ちゃんでも、何かを考えていることは明らかです。 ですから、今では、多くの学者が、後者の「弱い主張」を支持しています。 とはいえ、こうした概念のはじまりは、ドイツの伝統的な言語に対する態度であり、それは「強い主張」でした。 エドワード・サピアは、このドイツの伝統的な態度に触れて、仮説を構築することになったのです。 介護の現場におけるサピア・ウォーフ仮説とその対策 介護の現場におけるサピア・ウォーフ仮説のあらわれ方として、以下に3つの事例をとりあげてみます。 これらは、正確には、学問的なサピア・ウォーフ仮説の拡大解釈であり、科学的には証明された事実ではない点には注意してください。 高齢者の考え方そのものが理解できないことがある 論理的に説明したつもりなのに、どうにも、伝わらないことがあるでしょう。 もちろん、こうしたことは、現役世代と高齢者の間でだけ発生することではありません。 それでも、やはり、高齢者との意思の疎通のほうが、同世代の人との意思の疎通よりも困難に感じることがあると思います。 この背景には、人生経験の違いがあることは当然です。 しかし、それ以外にも、使ってきた語彙の違いもあるという点には注意が必要です。 人生経験の差は埋められませんが、語彙の差は埋められます。 自分が言葉を覚えることで、この語彙のギャップを超えることができたら、意思の疎通は(少しは)楽になる可能性があります。 医療職と介護職の意思統一がなされない 医療職(医師、看護師)と介護職(ケアマネ、ヘルパー)の間で、介護に対する考え方が大きく異なるということは、よくあります。 介護をする家族としては、こうしたことはとても困るのですが、現実には、ここのギャップはなかなか埋まりそうもありません。 もちろん、命を守ろうとする医療職と、日常生活における自立を目指す介護職の間で、考え方に相違があるのは当然のことです。 ただ、ここのギャップには、そもそも、日常的に使う語彙の違いがあるという視点も大切かもしれません。 医療職が介護の語彙を、また、介護職が医療の語彙を覚えることで、より包括的なケアが可能になっていく可能性もあります。 家族の間で、介護に関する考え方がまとまらない 介護がはじまると、家族の間で、介護に関する考え方の相違が生まれます。 一般には、日常的に多くの時間を介護にとられている人と、それを周囲からサポートする家族との間で、介護に関する考え方に大きな差が生まれることが多いと思います。 この背景には、語彙以外にも、多くの原因があるでしょう。 同時に、介護に関する語彙の差も、こうした考え方の差を生み出してしまう原因があることも疑えません。 普段は、直接的には介護にかかわらない家族も、介護の基本的な語彙を覚えていく必要があると思います。

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言語は認知や思考を規定するのか─「言語相対論」「言語決定論」の歴史と議論の行く末

サピア ウォーフ の 仮説

よく、「サピア・ウォーフ」という名前の人が考えた説だと思っている人があるけれど、そうではありません。 アメリカの言語学者エドワード・サピアと、その弟子にあたるベンジャミン・L・ウォーフが唱えた説です。 これを知れば、今日から世界観が変わってしまうほどの卓越した説です。 ウォーフという人は面白い経歴の人で、学者になる前には火災保険会社の仕事をしていたそうです。 そのため、いろいろな火災の原因を調査する機会がありました。 彼は、ガソリンの貯蔵所の火災を調べて、ガソリン缶の置かれている場所より、「空の」ガソリン缶の置かれている場所のほうが、火災が起こりやすいことに気づきました。 不思議なことです。 「空の」ガソリン缶ならば、火事の原因になるはずはないでしょう。 ところが、ここにことばの落とし穴があります。 「空の」ガソリン缶とは、たしかにガソリンは空っぽに近いかもしれませんが、その代わり、起爆性の気体が充満しているのです。 人はそれに気づかず、近くでたばこを吸ったりします。 ですから、火災を避けようとすれば、「 空のガソリン缶」ではなく、「 起爆性の気体が充満した缶」と表現すべきだということになります。 この話を学生にすると、「なるほど。 そういうことではありません。 「『空の』ガソリン缶」は、間違った言い方ではありません。 用済みのガソリン缶を集めておく場所に「『空の』ガソリン缶」と書いておくのは正しいことです。 空の缶を回収する人にとっては、「起爆性の気体が充満した缶」と書いてあっては、かえって分かりにくくなってしまいます。 「『空の』ガソリン缶」ということばと、「起爆性の気体が充満した缶」ということばは、切り取り方が違うのです。 しかも、 ある切り取り方によって作られたことばは、逆に人の物の見方を支配してしまうのです。 少し抽象的な言い方になりました。 では、身近な例をいくつか観察して、「ことばの支配力」のおそろしさをはっきりと実感してみることにしましょう。 02 NHK放送)。 アリーの焦燥する気持ちがよくあらわれている場面だと思います。 彼女と同じように、多くの人は、自分が19歳から20歳になったり、29歳から30歳になったり、はたまた40歳になったりというように、年齢のあらたな大台を迎えたとき、急に年をとったような気がするのではないでしょうか。 しかし、よく考えてみると、29歳の人が30歳になるのも、28歳の人が29歳になるのも、経過した時間は同じはずです。 べつに、アリーのように、30歳になった日に、突然シワが増えるというわけではないでしょう。 では、31歳を迎えたときは、30歳を迎えたときよりもさらにショックかというと、そんなことはなく、かえってショックは弱くなるのではないでしょうか。 時間は、本来区切りがないものです。 その時間の中に、人は 「20代」「30代」ということばによる区分を設けました。 物理的にはありえないはずの区分が、人にショックを与えたり悩ませたりしているのです。 別に、ことばで口げんかをして別れてしまう、ということではありません。 韓国では、同じ名字の人が結婚することはできないというのが伝統的な考え方です。 たとえば、キムさんという男性は、キムさんという女性とは結婚できません。 もっとも、先祖の出身地(ルーツ、 本貫)が違えばかまわないらしく、それぞれの家に伝わる系図を調べて、出自がまったく別であれば、問題なく結婚できるといいます。 ルーツが慶州のキムさんは、ルーツが光山のキムさんとは結婚できますが、自分と同じ慶州のキムさんとは、どんなに愛し合っていても結婚が許されないのです。 日本にたとえるならば、大阪がルーツの木村一郎さんは、京都がルーツの木村花子さんとならば結婚できますが、同じく大阪がルーツの木村春子さんとは結婚できない、ということです。 姓の種類の多い日本ならともかく、同姓の多い韓国では結婚に関する問題が多発するのではないかと心配になります。 「名字」もことばの一種です。 日本では、もともと庶民には名字がなかったし、明治維新のときに勝手な名字をつくったりもしたようです。 ところが、韓国では、昔からの名字を大事に守ってきた。 昔の人間が決めた名字(ことば)の区分が、現代にまで影響し、人の一生を大きく左右することもあるわけです。 1997年6月、臓器移植法が成立しました。 この法案に関して、「 脳死は人の死か」という判断のむずかしい問題が議論されました。 重態で、脳が機能を停止した患者Aさんがいたとして、もう助からない状態だが、Aさんの肝臓はまだ活動を続けていたとします。 もし、Aさんの肝臓を取り出して、肝臓の病気を持つBさんに移植すれば、Bさんは助かるかもしれません。 でも、「Aさんはまだ生きているのではないか? 生きている患者から臓器を取り出すことが許されるのか?」という考え方が出されました。 これに対し、「いや、脳が機能を停止(脳死)していれば、その人は死んでいるのだ、臓器を摘出することはゆるされる」という意見も上がりました。 「脳死」が「人の死」とみなされるならば、臓器摘出はできる。 しかし、「人の死」とみなされないならば、摘出はできない。 脳死を人の死と認めるかどうかは、法律成立後も議論が続いていますが、この問題は、本人の意思や家族の心情をどう尊重するかを含めて、 倫理的な問題であるという点では多くの人が一致すると思います。 僕はこれに加えて、 ことばの問題でもあると考えます。 「ことばの問題」というと、「たかがことば」という意味だと思われがちですが、そのようなことを言おうとしているのではありません。 「脳が機能を停止した患者から臓器を取り出す」という行為はまったく同じであるのに、その「脳の機能停止」という状態に「死」という名前(ことば)を与えた場合と、「生」という名前(ことば)を与えた場合とで、患者や家族、そして移植を待つ別の患者などの運命が決定的に変わってしまうということが言いたいのです。 作家の筒井康隆氏は、会社員時代、お金がなくて困っていたのだそうです。 そんなとき、会社の隣りのパン屋で、 カステラを裁断した切れっぱしを売っているのを見つけました。 おれはカステラの切れっぱしと牛乳一本を買い、社に戻って食べはじめた。 〔略〕カステラの味は懐しく、おれは夢中で食べた。 いや、おそらく夢中で食べていたのであろうと思う。 ふと気がつくと向かい側の机の同僚がにやにや笑いながらそんなおれを眺めていた。 〔略〕あっ、と思っておれは食うのをやめた。 なんということだ。 おれはいったいなんというものを食べていたのか。 これはカステラと同じ味、同じ栄養価のあるものでありながら実はカステラではない。 食いものでさえない。 屑なのだ。 おれの誇りはどこへ行ったのであろう。 (筒井康隆『玄笑地帯』p. 99) 筒井氏が食べていたのは「カステラの切れっぱし」ですから、カステラには違いないはずです。 でも、見方を変えれば、「食いものでさえない。 屑なのだ」という言い方も当たっているでしょう。 そのもの自体は何も変わらないのに、「カステラ」ということばで表現すれば食べ物になり、「屑」と表現すれば食べることができないものとみなされてしまいます。 食べ物のことから結婚、死生観まで、われわれはなんと強くことばに支配された人生を送っていることでしょうか。 (2003. 23一部改稿) 注 B. ウォーフ「習慣的な思考および行動と言語との関係」(池上嘉彦訳『言語・思考・現実』講談社学術文庫による) 信太一郎氏よりご教示いただきました。 「という文章の中で、「実際には江戸時代の庶民も苗字を持っていた可能性のほうがはるかに高い」と書いていらっしゃいます。 また、「」という考察もあります。 また、僕の教える学生のひとり(韓国からの留学生)が次のような証言をしてくれました。 「韓国では同じ名字の人が結婚することはできないという話ですが、実際そのような例は珍しいのです。 同じキムでもその種類が多いし、もし同じルーツのキムだとしてもその寸数(親等?)が近すぎなければ結婚できると私は知っています。 そういうわけで、結婚に関するトラブルの多発が社会問題になるような心配はあまりないと私は思います」 なるほど、大きな社会問題とまでは言えないのでしょう。 しかし、トラブルに関する話を耳にすることはあります。 (2002. 04) ご感想をお聞かせいただければありがたく存じます。 email: JavaScriptがないとアドレスが表示されません。 C Yeemar 2002. All rights reserved.

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