原田 マハ。 NEWS

原田マハ 文庫本一覧 (46作品)

原田 マハ

原田 ( はらだ ) マハ ( まは ) 原田 マハ maha 誕生 1962-07-14 (57歳) 職業 、、カルチャーライター 言語 最終学歴 卒 活動期間 - 代表作 『』(2012年) 主な受賞歴 第1回() 第25回() 第36回() 親族 (兄) 公式サイト 原田 マハ(はらだ まは、女性、 - )は、の、、カルチャー・エッセイスト。 生まれ。 小学6年生から高校卒業まで育ち。 、、、日本文学科、美術史学専修卒業。 美術館、、設立準備室、に勤務後、にフリーのキュレーターとして独立。 にカルチャーライターとして執筆活動を開始し、には共著で『ソウルジョブ』上梓。 そして同年、『カフーを待ちわびて』で第1回を受賞、特典として映画化される。 mahaの名でも執筆する。 キュレーターの経歴とも相まって、を題材とした作品が多い。 ペンネームはの「」「」に由来する。 兄は、同じく小説家の。 文学賞受賞・候補歴 [ ]• - 『』で 第1回受賞。 - 『』で 第25回受賞、第147回候補、第10回第3位。 - 『』で 第8回受賞。 - 『』で第149回直木賞候補。 - 『暗幕のゲルニカ』で第155回直木賞候補。 - 『リーチ先生』で 第36回受賞。 - 『』で第6回 受賞。 - 『美しき愚かものたちのタブロー』で第161回直木賞候補。 作品 [ ] 小説 [ ]• 『普通じゃない。 』(2007年 )• 『ナンバーナイン』(2008年 宝島社)• 『ごめん』(2008年 )• 改題 『夏を喪くす』(2012年 )• 『さいはての彼女』(2008年 角川書店)• 『おいしい水』(2008年 )• 『花々』(2009年 宝島社)• 『ギフト』(2009年 )• 『インディペンデンス・デイ』(2010年 )• 改題 『独立記念日』(2012年 PHP文芸文庫)• 『』(2010年 )• 『いと 運命の子犬』(2011年 文藝春秋)• 『花々』(2012年 宝島社)• 『さいはての彼女』(2013年 角川書店)• 『ユニコーン の遺言』(2013年 NHK出版)• 『アノニム』(2017年 角川書店)• 『スイート・ホーム』(2018年 ポプラ社)• 『常設展示室』(2018年 新潮社)• 『』(2019年 文藝春秋)• 『消えない星々との短い接触』(2019年 幻冬舎)• 『』(上下、2019年 PHP研究所)• 『〈あの絵〉のまえで』(2020年 幻冬舎) ノンフィクション [ ]• 『のあしあと 私の鑑賞術』(2016年、)• 『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』(2017年、)• 『ゴッホのあしあと 日本に憧れ続けた画家の生涯』(2018年、幻冬舎新書)• 『現代アートをたのしむ 人生を豊かに変える5つの扉』(2020年 祥伝社新書)、高橋瑞木共著 ルポルタージュ [ ]• 『ソウルジョブ 女30歳・運命の仕事に出会う』(2005年、共著、)• 『やっぱり食べに行こう。 』(2018年、)• 『フーテンのマハ』(2018年、)• 『原田マハの物語』(2019年 :新潮社) アンソロジー [ ] 「」内が原田マハの作品• 恋のかたち、愛のいろ(2008年2月 )「ブルースマンに花束を」• エール! 3(2013年10月 実業之日本社文庫)「ヴィーナスの誕生 La Nascita di Venere」• 現代の小説2014(2014年6月 徳間文庫)「無用の人」 メディア・ミックス [ ] 映画化 [ ]• (2009年2月28日公開、配給:、監督:、主演:)• (2011年3月19日公開、配給:、監督:、主演:)• (2015年2月21日公開、監督:、主演:) ドラマ化 [ ]• (2017年1月14日 - 2月4日、「」枠、全4話、監督:、主演:) 漫画化 [ ]• アイのリラ〜一分間だけ(画:、全2巻) 外部リンク [ ]• haradamaha -• haradamaha - この項目は、(・・・・・・・・・・・)に関連した です。

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原田マハ 文庫本一覧 (46作品)

原田 マハ

ideelifecycling. 子供の時にキュビズムの画家に強く惹かれるのは一般的ではないですから、やはり人とは違う才能がもともとあったのでしょうね。 小学6年生の時、岡山に引っ越し、岡山市立三門小学校、市立石井中学校を経て、私立山陽女子高校に入学。 高校時代はフォークバンドを作ったり、恋愛小説や少女マンガを書いたりと自由に過ごし、1981年、 関西学院大学文学部に入学。 大学4年生の時に、グラフィックデザインの専門学校に通い、今度はルソーに惹かれ始めます。 フランスから一度も国外へ出ず、植物園で絵を描いていたエクゾチックなルソーの物語を書きたいと、この頃から決めていました。 ピカソとルソーは違う派ですが、同じ時代で交流もあったわけですから、何か共通した響きがあったのかもしれませんね。 大学を卒業後、数年はアルバイトをして、1988年、馬里邑(まりむら)美術館(現在は閉館)に勤めます。 その後、伊藤忠商事に入社し、アート、文化に関するコンサルティング業務をこなし、世界中のコレクターや美術館との交渉をします。 1995年、森ビルの森社長の誘いを受け、森美術館の設立準備に携わります。 この時期、ビジネス通訳初級を獲得し、森社長の通訳も務めました。 2002年、40歳でフリーのキュレーターとして独立し、2004年、「CET04 VISION QUEST」という展覧会を立ち上げて、2万人を動員します。 2005年、『カフーを待ちわびて』で小説家でデビューします。 amazon. 原田さんの小説を読めばわかるように、美術史の知識だけでなく美術売買や美術界の裏事情が詳しく書かれているのは、こういった経歴があるからなのですね。 作風はまるで違うけれど、小説がどんどん映画化ドラマ化される伊坂幸太郎氏のように、若者に響く作品が多いのは、時代の流れをよく掴んでいると感じます。 受賞歴• 2005年 「カフーを待ちわびて」で第1回日本ラブストーリー大賞。 2012年 「楽園のカンヴァス」で第25回山本周五郎賞。 同作で第10回本屋大賞第3位。 同年「キネマの神様」で第8回酒飲み書店員大賞。 2017年 「リーチ先生」で第36回新田次郎文学賞。 原田マハの結婚した夫と子供 原田マハさんは1990年5月、28歳のときに結婚。 原田マハさんの夫は、音楽関係の仕事をしていましたが、現在は原田マハさんのマネージャーとなってサポートしているようです。 ほとんど一緒にいない夫婦で、仕事で出張が多いし、家の中でも一緒にいたりする時間は少ないそうです。 結婚歴も30年近くになりますが、長続きの秘訣は、「会わないこと」とだそうで、いい距離感の夫婦関係のようですね。 子供の情報はなかったので、たぶんいないのではないかと推測されます。 原田マハの両親・兄弟姉妹 父親 原田さんの父親は、写真中心の大判の本のセールスマンでした。 昔は町にあまり本屋さんがなかった時代で、セールスマンが定期購読の契約に回って、いたそうです。 ですから家にはいつもたくさん本が積んであったので、原田マハさんも自然に本と親しんでいったそうです。 また父親は引っ越しが好きで数年ごとに、家族を連れて引っ越しをしていたとか。 兄 マハさんには兄が一人いて、小説家の原田宗典(むねのり)さんです。 iwanami. この頃、宗典さんのエッセイはかなり人気があって派手な暮らしもしていたのですが、ストレスによりうつ病になります。 2015年3月、新作を書きおろし、執筆活動を再開。 復活作『メメント・モリ』を発表しています。 兄の宗典さんはエピソードがたくさんあって、実に面白い人生を送っている人なので、別記事で紹介します。 作品もマハさんとは全く毛色が違うのですが、強く惹かれるものが多く、個人的にひとつ上げるとしたら『 ぜつぼうの濁点』 ですね。 amazon. イラストは染色家の柚木 沙弥郎氏が描いていて、可愛いながらも異質感を醸し出していながら、読後に一筋の光が見えるような作品です。 sponsored link 原田マハの自宅 原田マハさんの家は長野県蓼科高原の別荘地にあります。 建築家の馬場正尊さんによって設計され、2面ガラス張りのリビングが目を引くモダンな造りです。 ideelifecycling. 森を眺めると、葉が南側に向くので、森がすべてこちら側を向く風景がみられます。 仕事場としても使いますが、大切な友人を招く空間でもあるので、ゲストハウスのように原田さんは感じているようです。 しかし、家にいるのは1年のうち3分の1くらいだそうで、あとは東京とパリに滞在しているとか。 古美術やアンティーク、民藝に造詣が深いだけあって、家の中は様々な作品で飾られています。 旅先で出会ったアートをコツコツと集めていって、特に好きなのはイギリス人の陶芸家バーナード・リーチの作品で、リーチの足跡を辿る旅までしたそうです。 「ストーリーのないモノは部屋には置かない」と言い切る原田マハさんの洗練された家の中で、時には孤独に、時には友人たちと交流し、素晴らしい作品を創っていく様子が目に浮かぶようです。

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原田マハ公式ウェブサイト マハの展示室

原田 マハ

PROFILE 原田マハ本人による「作家デビュー前」「デビュー後」の自伝的プロフィールと、著者略歴。 日本語、英語、フランス語に対応。 自伝的 プロフィール• 略歴 原田マハ 1962 年東京都生まれ。 関西学院大学文学部日本文学科、 早稲田大学第二文学部美術史科卒業。 伊藤忠商事株式会社、 森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館勤務を経て、 2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。 2 005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、 2006年作家デビュー。 2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。 2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。 ほかの著作に『本日は、 お日柄もよく』『キネマの神様』『 たゆたえども沈まず』『常設展示室』『 ロマンシエ』など、アートを題材にした小説等を多数発表。 画家の足跡を辿った『ゴッホのあしあと』や、アートと美食に巡り会う旅を綴った『フーテンのマハ』など、新書やエッセイも執筆。 作家前(1962 ~ 2005) 1962 東京都小平市に生まれる。 3歳のころから絵を描き始め、幼稚園児の頃は兄(原田宗典)と競い合うように児童書を読みあさる。 お気に入りの本は「ドリトル先生」「シートン動物記」。 好きなアーティストはパブロ・ピカソ(自分のほうが絵の腕前は上だ、などと思っていた)。 1972 夏休み、岡山に単身赴任中の父に呼び寄せられ、家族で開通したばかりの山陽新幹線に乗って初めて岡山訪問。 父に連れられて初めて倉敷にある大原美術館へ行く。 数々の名画に見とれつつ館内を進んでいくと、見たこともないようなキテレツな絵が。 「何これ?ちょっと下手くそすぎない?あたしのほうがうまいよ」と本気で思う。 パブロ・ピカソという名のその画家は、それ以降、我がライバルとなり、のちに人生を導いてくれる導師となる。 1974 小学6年生のとき、百科事典や美術書などのセールスマンをやっていた父の仕事の転勤によって、岡山へ。 岡山市下伊福に住む。 岡山市立三門小学校、市立石井中学校を経て、私立山陽女子高校入学。 フォークバンドを結成し、自作イラストつき恋愛小説、少女マンガを書くなど、かなり進歩的な10代を過ごす。 1981 関西学院大学文学部入学。 当初、ドイツ文学科に所属したが、あまりにもドイツ語ができなくて日本文学科に転科。 就職活動の足しになればと、4年生のときにグラフィックデザインの専門学校に通う。 のちに、阪神大震災で崩壊する運命となる西宮のアパートで、友人と共同生活を送る。 このころ、その友人と共著で、少女マンガ「ロマンチック・フランソワ」を「りぼんまんが大賞」に投稿、最終選考に残るもあえなく選外に。 実家は大学1年のときに、岡山から東京へ移住。 1983 7月、21歳の誕生日を記念すべく、京都市美術館で開催中だったピカソ展に行き、完膚なきまでにやられる。 「こいつには負けられない…」となぜかライバル視していたピカソが、とんでもない天才だったことにようやく気づき、「どこまでもついていきます!」と心に誓う。 秋、友人に「この画家知ってる?」と、見たことのない画集を渡され、「何これ?ちょっと下手くそすぎない?いや、これは今度こそ下手でしょ。 今流行りのヘタウマとかじゃなくて、本格的に正真正銘のヘタヘタでしょ」と失礼きわまりない思いを抱いたその画家の名はアンリ・ルソーであった。 あまりのヘタっぷりにむしろ引き込まれてしまい、ルソーの画集や関連書籍を図書館で読み漁る。 おりしも発売されたばかりのルソー研究書「アンリ・ルソー 楽園の謎」(岡谷公二著 を大学の生協でみつけ、読み耽る。 ルソーの絵の面白さと人間性にすっかり魅了され、「いつかルソーの物語を描いてみたい…」と思いを募らせる。 1985 関西学院大学卒業。 卒論は「谷崎潤一郎:痴人の愛」。 就職先がみつからなかったので、そのまま西宮に居残り、バイトをしながら専門学校を卒業。 1986 東京でコピーライターをやっていた兄に呼び戻され、東京へ。 広告プロダクション二か所で勤務するも、あまりの激務に音を上げ、退職。 もともと好きだった現代アートの世界に目覚め、独学で現代アートについて学ぶ。 この頃、資金も才能もないのに「ニューヨークへ留学>キャリアアップ」の妄想にかられる。 1987 兄が小説家デビュー。 子供の頃からの夢をかなえた兄の根性と才能に仰天。 1988 原宿でたまたま通りすがりにオープンの準備をしていた「マリムラ美術館」(現在は閉館)に行き当たり、飛びこみで「雇ってください」と訴える。 その度胸を買われて、まんまと就職。 美術展の展示、コレクションの管理、広報、受付と幅広い活動をし、美術館の実務を経験。 1990 5月に結婚。 マリムラ美術館を退職し、知人から誘われていた民間のアートマネジメント学校のディレクターとなる。 が、肩書に憧れて引き受けたものの、ボランティア活動に近く給与もない。 現状打破をもくろみ、その学校にたまたま視察にきた伊藤忠商事新規事業室の人物を頼って、ほぼ飛び込みで「企業とアートの新しい関係」についてプレゼンさせてもらう。 またもや度胸を買われて、めでたく伊藤忠商事に中途入社が決まる。 1991 伊藤忠商事株式会社新規事業開発室で仕事を始める。 全国の地方自治体や企業の「アート、文化に関するコンサルティング」が主な業務。 新しく美術館を開設する際のコンサルティングや、コレクションの売買、展覧会のプロデュースなどを手掛ける。 営業で、全国の都道府県を飛び回る。 世界中のコレクターやギャラリスト、美術館との交渉も、語学力はなくとも度胸だけでなんとか奇跡的にやり抜く。 1993 当時顧客の一人だった森ビルの森稔社長より「六本木に巨大な都市開発をするのだが、そこに美術館を造ろうと思う。 相談にのってくれますか?」と頼まれ、チーフコンサルタントとして「森美術館」の構想策定に乗り出す。 1994 「美術コンサルタントもいいけれど、いつかキュレーターになりたい…」と思い始め、早稲田大学第二文学部の美術史科を学士受験(三年から編入可能)。 当時、新宿区西早稲田に住んでいたため、早稲田の二文(夜間と土曜日のみ授業)ならば会社勤めしながら通えると判断した。 昼夜を分かたず猛勉強し(人生最高の勉強量!)40倍の倍率をくぐり抜け、合格。 専攻は20世紀美術、卒論は「ル・コルビュジエの絵画論」。 学芸員の資格を取得。 1995 森社長のお誘いを受け、伊藤忠商事を退職、森ビル株式会社に入社。 本格始動した森美術館の設立準備室に所属。 以後、世界中の美術館を森社長夫妻と視察。 またもや度胸だけで世界中のアートセレブと会いまくる。 以後、六本木ヒルズのブランディングや、美術館設立にまつわるほぼすべての業務に関わる。 1996 早稲田大学卒業。 1999 突如森社長に呼び出され、「あなたの英語は下町英語(ブロークンイングリッシュのこと)だね」と指摘される。 度胸だけで通してきた英語を看破され、返す言葉なし。 ところが、「通訳学校に行きなさい」と社長に寛大にも指示され、通訳学校に入学。 またもや仕事をしながら人生最大量の英語の猛勉強をし、ビジネス通訳初級を獲得。 以後、ちょっと自信を持って社長の通訳を務められるようになる。 2000 ニューヨーク近代美術館(MoMA)と森美術館が提携関係を結ぶ。 人的交流の一環で、MoMAに派遣され、6か月間のニューヨーク駐在。 MoMAインターナショナルプログラムに所属し、美術館のしくみを学び、企画展、国際展についてリサーチを行う。 2002 森美術館の館長が決定されたのをきっかけに、「人生でほんとうにやりたいことは何か? 」と考える。 おりしも40歳になる年だったので、「女の人生は40代がプライム。 いちばんやりたいことを40代でなしとげる」と考え、またもや度胸で退職。 実はなんの展望もなかったが、直観だけで独立。 同じころ立ちあげられた都市の再生プロジェクト「Rプロジェクト」に参加。 のちに朋友となる建築家やデザイナーなど、キラ星のごときクリエイターたちと出会う。 新しい都市論としての本、「R the Transformer」を建築家・馬場正尊氏と共著、出版。 都市開発の会社など、フリーランスで文化コンサルティング、ブランディングを手掛ける。 2003 Rプロジェクトの取材がきっかけで、編集者・菅付雅信氏に出会う。 当時、雑誌「インビテーション」の編集長だった菅付氏は、「原田さん、ニューヨークに住んでたんだよね?むこうにいっぱいクリエイターの知り合いいるよね?今度ニューヨーク特集するんだけど、取材行ってみる?」と、こっちはライターとしてなんの経歴もないのに、突然オファーしてくる。 やはり度胸で波に乗る。 イラク戦争開戦3日後、がらがらのアメリカン航空でニューヨークに向かい、20人以上のクリエイターの取材をこなし、30ページ近くの特集記事を執筆。 これが、カルチャーライターとして仕事を始めるきっかけとなる。 デザインイベント「東京デザイナーズブロック」に関わった縁で、デザイナー・佐藤直樹氏らとともに、「東京の東側にチェルシーのようなクリエイターエリアを作ろう!」と、突然、「セントラルイースト東京 CET 」というアートイベントを始める。 100人近くのアーティストが、日本橋、馬喰町、浅草橋近辺の空きビルをジャックするイベントをやり遂げる。 2004 「CET04 VISION QUEST」という展覧会を仕掛け、動員は一気に2万人に膨れ上がる。 たまたま知り合いになった角川書店の編集者に「共同執筆で働く女性のインタビュー集を作らないか」と持ちかけられる。 その取材で、沖縄の女性社長をインタビューすることになり、沖縄へ出向く。 なんとなく文章を書きなれてきて、「ひょっとしてそろそろ小説書いてもいいかもな…」と漠然と考えていた時期だった。 那覇で取材をしたのち、ぶらぶらとやんばるへ行き、そこで泊まった民宿のおかみさんから「伊是名という島がいいところらしいよ」と聞き、行ってみることにする。 このときには、人生を変える運命がその島に待ち受けているとは思いもよらず。 伊是名島に渡り、浜辺で遊ぶ男性とラブラドール犬に出会う。 もちまえの好奇心から、「何て名前のワンちゃんですか」と聞いたところが、「カフーっていうんです」と。 「どう言う意味ですか?」「沖縄の言葉で、『幸せ』という意味です」・・・・・・ その瞬間、何かが、どーんと下りてきた。 沖縄の離島の浜辺で、幸せという名の犬に出会ってしまった・・・・・。 帰りのレンタカーの中で、すっかり小説のプロットができあがっていた。 もし、あの犬の名前が「シーサー」だったら、小説を書くことはなかっただろう。 飼い主の名嘉民雄さんの名付けセンスに感謝。 2005 1月1日、この記念すべき日を忘れまい、と元旦から小説を書き始める。 6月、共著「ソウルジョブ」刊行。 小説をこつこつと書きすすめるが、角川書店の友人編集者に読んでもらおう、というくらいの感じだった。 7月末、いつも旅をしている友人と出かけた北海道真狩村のホテルのロビーで、いつもは読まない日経新聞を何気なく広げる。 そこに「今、ラブストーリーがブーム」の文字が。 「日本ラブストーリー大賞設立」「大賞受賞作は映画化」・・・・これだあ!と、思わずホテルの新聞の1ページをべりべりと破って持ち帰る。 9月13日、「カフーを待ちわびて」完成。 しめ切り2日前。 日本橋の郵便局から投稿。 同じころ、11年前から飼っていたゴールデンリトリーバー、マチェックが脾臓がんになり、症状が悪化、必死に看病する。 また同じころ、「CET05」の準備が始まる。 いま思い出しても、どうやってこの時期を乗り越えたか判然としない。 10月1日、「CET05 Office Vacant」が始まる。 CET史上最高の5万人の動員を記録。 10月31日、宝島社より日本ラブストーリー大賞最終審査に残った旨、通知あり。 マチェックの症状、悪化。 11月1日、恵比寿に60年代カルチャーショップ「TRIggER」をオープン(現在は閉鎖)。 11月2日、マチェック死去。 涙、涙・・・・・・ 11月30日夜、宝島社より電話あり。 日本ラブストーリー大賞受賞。 ただただ、びっくり。 どうしていろんなことがこうもいっぺんに起るんだろうか・・・・・・ 12月9日、授賞式に臨む。 あまりにも落ち着き払っていたせいか、司会者控室に案内されかける。 無事、受賞。 作家後(2006 ~) 2006 3月20日、13回もの校正を経て『カフーを待ちわびて』で作家デビューを果たす。 先輩作家の兄からは「いい気になるな、本気になれ」とエールを送られる。 デビュー直後の初サイン会(丸善・丸の内本店)。 友人に声をかけまくり100名以上の行列となる。 完成した本をもって、お世話になった伊是名島を訪問。 村民館で歓迎会を開いてもらう。 集まってきたお年寄りに「マハ」と手書きの名刺を手渡すと「あー、いい名前だねえ、又八(またはち)さん」と言われる。 以後、又八を川柳の雅号とする。 2007 亡き愛犬マチェックに捧げる書き下ろし『一分間だけ』を刊行。 「盲導犬クイール」で知られる写真家、秋元良平さんが撮った岡崎市の平山さん宅の愛犬、ヴィヴィちゃんが表紙になる。 のちに漫画家みづき水脈さんが「アイのリラ」として漫画化。 平山家、みづきさん、秋元さんたちと「リラの会」を発足、交流を続ける。 2008 各文芸誌で連載を次々開始、「書く筋トレ」だと思ってとにかく書き続ける。 その結果、1年間に新刊を7作出すというハイペースな出版ぶりとなる。 日本各地、世界各国へと、物語の種を求めて精力的に取材を開始する。 2009 森ビル時代の同僚で飛行機オタクの矢部俊男さんに、日本の国産機「ニッポン号」が世界一周を果たした秘話を小説化しないかと持ち込まれて興味をもち、「翼をください」を書き上げる。 「史実をベースにしてフィクションを書く」というスタイルの小説第1作目となった。 秋、『カフーを待ちわびて』の映画公開。 原作初映画化。 明青役・玉山鉄二さん、幸役・マイコさん、カフー役・黒ラブラドールの名演に感動。 実は学生時代にアイデアが浮かび、いつか小説にしたいと胸に秘めていた、画家アンリ・ルソーとパブロ・ピカソの物語「楽園のカンヴァス」を出版各社に提案するも、「ルソー? 誰??」「なぜそんな画家を取り上げるのですか?」「アートがテーマじゃなくてやっぱりラブストーリーのほうがいいでしょう」などなど、なかなかいい返事が得られず。 「芸術新潮」を発行している新潮社にあらすじを話してみたところ、「ルソーとピカソが出てくるなんて面白い!」と連載が決まる。 調子に乗って「ひとつだけお願いがあるんです。 かれこれ25年もこの物語を胸に秘めてきました。 なので、この小説が刊行されたとき、帯に『構想25年』と書いてください!」と申し出ると、「わかりましたから早く書いてください」と言われる。 その時点で1文字も書いていなかった。 『カフーを待ちわびて』のスピンオフ『花々』、小さな愛情ストーリー集『ギフト』刊行。 2010 ルソー没後100周年であるこの年に「楽園のカンヴァス」を書き始めようと、パリに長期滞在して取材、執筆を決心する。 その前に、舞台のひとつとして登場させようと決めていた岡山県倉敷市にある大原美術館を表敬訪問、大原謙一郎理事長(当時)と高階秀爾館長にお目にかかる。 ご両人ともに歓迎され、調子に乗って、憧れの高階館長に向かって「ひとつだけお願いがあるんです。 この小説の連載が終わったら単行本になります。 その3年後には文庫になります。 そうしたらそのときに、高階先生になんとしても解説を書いていただきたいのです! お願いです! お願いお願いお願いです!!」と申し出ると、「わかりましたから早く書いてください」と言われる。 その時点でやっぱりまだ1文字も書いていなかった。 2月〜4月、パリに滞在。 ルーヴル美術館のまで徒歩1分のアパルトマンを仮寓にして、いつでもルーヴルコレクションに会いにいけるという信じがたい環境で、「ルーヴルの隣人」を自称し、さあ書くぞと腕を鳴らして執筆したのは、南大東島が舞台の「風のマジム」と、礼文島が舞台の「旅屋おかえり」であった。 8月『本日は、お日柄もよく』刊行。 発売前、実家に泊まっていたとき、明け方にお赤飯の夢を見る。 「チーン!」と大きな音が耳元でしたので、びっくりして飛び起きると、うちの旧式の炊飯器が炊き上がったときのチャイムの音だった。 どういうわけか母が朝からお赤飯を炊いていたので、何があったのか尋ねると、「今日はあんたの誕生日でしょ?」と。 そんなこともあって『本日は、お日柄もよく』の単行本の熨斗袋のカバーをめくるとお赤飯の写真が出てくるという世にもめでたいデザインは、私の考案による。 9月「小説新潮」にて「夢をみた(のちに「楽園のカンヴァス」に改題)」の連載スタート。 12月、矢部さんの誘いで蓼科を視察。 矢部さんは蓼科にセカンドハウスを持っていて、ウィークデーは東京で勤務、週末には蓼科で過ごすといううらやましい「二拠点居住」を実践中。 「蓼科はいいぞ〜蓼科はいいぞ〜引っ越して来いよ来いよこいよ〜」と呪文のように言われ続け、「いいかも…」と思い込む。 蓼科を舞台に若者たちが米作りを通して再生する物語「生きるぼくら」を着想する。 さまざまな女性が主人公の24話の連作短編『インディペンデンス・デイ』(文庫化の際『独立記念日』に改題)、地方が舞台の母と娘、家族の愛情物語集『星がひとつほしいとの祈り』、沖縄産ラム酒を造った女性起業家の実話をもとにした『風のマジム』刊行。 2011 2月、蓼科の近くにある信濃境という場所で、友人の農家・黒岩夫妻が営む自然農の米作りワークショップに参加。 3月11日、東日本大震災発生。 計画停電の中、パソコンの画面の明かりだけを頼りに、祈るような気持ちで「生きるぼくら」を書き続ける。 原発事故後、日本中が不安におびえる状況下で、「楽園のカンヴァス」最終回を書き上げる。 どんなことがあろうとも、最後には希望の灯があるようにーーという気持ちで。 4月、2009年から取材で通い続けていた京都で、原発事故の影響から逃れようと首都圏から「避難」してきた母子を多く見かけ、「異邦人(いりびと)」を着想する。 5月、蓼科の森の中に家を建て、引っ越すことを決意。 クリエイティブ・チームとの共同作プロジェクトとして移住計画を始動。 秋、第二の故郷・岡山が舞台の『でーれーガールズ』出版を機に母校・山陽女子高校の同窓メンバーたちと再会。 本作は2015年にオール岡山ロケで映画化され、公開された。 チェリストの継母とチェロをあきらめた娘の音楽物語『永遠(とわ)を探しに』刊行。 2012 1月、『楽園のカンヴァス』発売。 お願い通り、帯に「構想25年」と書いてもらい感慨深くなる。 2月、トルコ作家協会の世界女性デー関連企画でトルコに招かれ、東西が融合する古都の文化にすっかり魅了される。 『楽園のカンヴァス』刊行後のインタビューが途切れなく続く。 多くの読者に受け入れられていることを感じ、またもや感慨深くなる。 4月、朋友の水戸芸術館学芸員(当時)高橋瑞木さんとともに、ニューヨーク、ロス、サンフランシスコを旅する。 その最中に山本周五郎賞ノミネートが発表。 「絶対受賞する」と瑞木ちゃんに予言されたので「なんでそう思うの?」と訊くと「文句なく面白かったから。 あと、原田さんの執念が実を結ぶはずだから」。 5月、山本周五郎賞受賞。 瑞木ちゃんの予言的中。 記者会見で自分の緊張をほぐそうと自分で自分にツッコミを入れて自分で笑った写真が翌朝の新聞に掲載され、ほんとうにうれしそうな笑顔に見えたのでよしとする。 6月末の授賞式のために、『本日は、お日柄もよく』作中で自分で作ったスピーチ10ヶ条に基づき、3分間のスピーチ原稿を作り、暗記する。 本番ではスピーチの前に手のひらに「静」と書くのを忘れる。 が、けっこううまくいった…と思う。 『楽園のカンヴァス』が多くの読者に受け入れられたことで、「史実をベースにしたフィクション」を書き続けようと決心する。 それはいつしか「アート小説」と呼ばれるようになる。 10月、パリのリトグラフ工房「idem」を舞台にしたラブコメディ「ロマンシエ」着想、取材。 idemのオーナー、パトリスに「どんなふうに書かれるのか楽しみだよ。 絶対フランス語に翻訳して読ませてほしい。 絶対だよ、絶対!」と念を押される。 なので、文芸雑誌「きらら」連載中にミニ漫画化して毎月idemに送り、パトリスのアシスタント・大津明子さんに説明してもらうことにする。 売れないアラサータレントで無類の旅好き女子の人情物語『旅屋おかえり』、『生きるぼくら』刊行。 2013 1月、真冬のモスクワ、サンクトペテルブルグへ「プーシキン美術館展」のプレスツアーで訪問。 初ロシア訪問で、ルソーの「詩人に霊感を与えるミューズ」が見られるのを喜ぶあまり、滑って転んで頭を強打したが、なんともなかったうえに、以後文章にキレが出てきたような気がしないでもない。 そんな中、留守中の日本で蓼科の森の家が完成。 夫が一人で引っ越しの準備をせっせと進めてくれる。 2月、日曜美術館の企画で、パリのクリュニー美術館所蔵のタペストリー「貴婦人と一角獣」の取材をし、同作品の日本での展覧会に連動した小説「ユニコーン」を書き下ろす。 展覧会連動型小説という新しいアート小説のスタイルに開眼。 パリから帰国後、いきなり引っ越し。 矢部さんが「蓼科は寒いけど乾燥してるから大雪にならない土地柄なんだ」と言っていたのを真に受けて、真冬でも雪がないなら引っ越しできるだろうと踏んでいたのだが、当日は大雪でマイナス15度であった。 介助犬の訓練を受けつつ、家庭犬にキャリアを変える犬のことを「キャリアチェンジ犬」と呼ぶ。 賢くやさしくおだやかなジャムは、愛犬マチェック以来、我が家の新しい家族となる。 5月、愛すべき「美しき愚かものたち」である印象派、モダン・アートの画家たちの人生を描いた『ジヴェルニーの食卓』刊行。 実在した巨匠たちを物語の中で描く喜びはひとしお。 以後、敬愛する画家を中心にさまざまな物語を書き続ける。 9月、ようやく落ち着いた蓼科の家のお披露目をする。 設計コンセプトは「森に沈む家」。 内装コンセプトは「北欧と民芸が融合する部屋」。 満足まんぞく。 日本初の女性総理大臣とその夫の愛情物語『総理の夫』刊行。 (つづく 近日公開予定).

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