剣豪 宮本 武蔵 が 書い た 兵法 の 極意 書 は。 宮本武蔵に着眼し、五輪で頂点を目指す羽根田卓也

五輪書―強く生きる極意

剣豪 宮本 武蔵 が 書い た 兵法 の 極意 書 は

無敗の剣聖、宮本武蔵。 彼が晩年に著した本書は、「勝つこと」を徹底して追求した不朽の兵法書。 わかりやすい現代語訳として提供する。 本書は、剣聖・宮本武蔵の代表的著作「五輪書」を、現代の読者でもすらすら読めるよう、かつ原文の息づかいを損なわないよう、工夫を凝らした現代語訳である。 /原著者・宮本武蔵は、生涯、六十数度に及ぶ真剣勝負に一度として敗れなかった。 その「不敗の哲学」を後世に伝える本書は、いかにして場を支配し、敵を支配し、己を支配するかを説く兵法実践の書である。 強さ、弱さ、ためらい、含みなど人間心理を隅まで見透かし、100%の確率で勝利を得ることをめざす。 そのため欧米の企業経営者にも、「不敗のルールブック」として広く支持・愛読されているという。 /武蔵の言葉は、粗野に感じるほど飾り気がなく、徹頭徹尾論理的でクールだ。 そして、勝つことの目的、生きることの意義とは何かを、時代を越えてわれわれに問いかけてくる。 現代日本人が再読すべき、不朽の名著である。 今、「五輪書」をどのように読めばいいのか。 一般的には、剣豪、宮本武蔵に興味をもち、その非凡な生き方から、何らかの人生の指針を学ぶため、手に取られる方が多いと思う。 かたや、歴史小説ファンであれば、ノンフィクションの剣技の醍醐味を味わうという読み方もできる。 水の巻「多敵の位」のくだりなど、単身大軍の中に飛び込み、斬りまくる武蔵の凄惨な姿が彷彿とされ、手に汗握るリアリティが感じられる。 ビジネスマン諸氏であれば、火の巻、「枕をおさえる」「渡を越す」「気色を読む」「陰を動かす」「角にさわる」等々、珠玉の各章に、ビジネスミーティングや営業、交渉のさまざまな局面で応用できる、高度な心理的対人折衝スキルを見出すことができるだろう。 武蔵自ら、道を行う鉄則として「役に立たないことはやらないこと」と言い切る。 生涯、剣一筋にのしあがろうとしたリアリストが、現代では想像もつかない実戦の修羅場の中から、冷徹な視野ですくいとった「勝つ」ためのエッセンスが本書には凝縮されている。 徹底的な兵法実践の書ではあるが、読み進めるうちに、道をたずねる老僧のような静謐な境地が開けてくるのはなぜだろうか。 内容(「BOOK」データベースより) 火の巻 二刀一流の兵法では、戦を火に見立て、戦や勝負についての事柄を火の巻として当巻に書きあらわす。 まず、世の中誰も彼もが兵法の技を小さく小さく理解し、あるものは指先の動き、手首からほんの三寸五寸の技を使い、またあるものは扇をもって、肘から先のスピードで勝負を競い、または竹刀打ちのわずかな速さの技を覚え、手足を器用に使っては、わずかな技の速さの習得にかかりきっている。 わが兵法においては、度重なる勝負に一命をかけて立合い、生死にわかれ、刀の道を覚え、敵の打つ太刀の強弱を知り、正しい太刀筋の道をわきまえ、ただ敵を打ち倒すための鍛錬を行っているので、小さなことや弱いことは、考えもつかない。 ことに鎧・兜で身を固める戦での技に、小さなことなど頭を掠めもしない。 さらにいえば命がけの勝負で、自分ひとりで五人十人の敵とも戦い、これに勝つ道理を確立することがわが道の兵法である。 よって一人で十人に勝つ方法も、千人で一万人に勝つ方法も何の差別もない。 よく考慮して見なさい。 とはいいながら普段の稽古で、千人一万人を集めこのやり方を試して見ることはできない。 一人で太刀を取ったとしても、個々の敵の知略を推し量り、敵の強弱と剣法を見抜き、兵法から生まれる智恵を持って鍛錬すれば、一万人にも勝てる境地を究め、この道の達者ともなれるのだ。 当兵法のまっすぐな正しい道を、自分をおいて世界中の誰が体得し究めるものかと確信して、朝鍛夕錬し己を磨きぬけば、やがて自在の境地と無双の力量を得、神通力を得るまでにもなれる。 これが武士として、法を行う気構えである。 一 場の問題 戦いに有利な場を見分けること。 立つ位置において太陽を背負うことが大事である。 太陽を自分の背後にして構えるのだ。 もし、所により太陽を後にできなければ、右横に太陽が来るように位置取りをする。 室内でも明かりを後、または右横とすべきは同様だ。 自分の後はつまらないように、左は大きく開けておき右横はつめて構えたいものだ。 夜間においても敵が見える場所では、火を後ろにし灯りを右横にすること、日中と同様に考えて構えなさい。 敵を見下ろすといい、やや高いところに位置取るようにしよう。 座敷では上座方向が高くなっている。 さて、戦いが始まったら、敵を自分の左側の方へと追い回すのだ。 そして、難所が敵の後ろに来るように向きに構わず、常に難所へと敵を追いかけることが大事だ。 難所では敵に場を見せずといって、敵が顔を振って回りを確認できないように、間断なく攻め立てるように。 室内においても敷居・鴨居・戸障子・縁などまたは柱などの方向へ敵を追い詰める場合も、場を見せずということが同様に大事である。 敵を追いかけるどの方向であっても、足場の悪いところや脇に障害物のあるところなど、場の利を自分にひきつけて場の勝利を得ることに専念するのだ。 よく研究し、また鍛錬するように。 一 枕をおさえる 枕をおさえるということは、頭をあげさせないという意味である。 兵法勝負の道に限って他人に自分を動かされて、後に付かされることはよくない。 どんな場合も敵を自在に操りたいものだ。 それで敵もそうしたいと思い、自分も同じ気持ちなのだが、他人の出方を読めない限りこれは難しい。 兵法では敵が打つのを止め、突くのを抑え、組み付くのをもぎ離すという手がある。 枕をおさえるという手は、兵法の正道を会得して敵にかかるならば、敵のどのような意図をも、敵がやり始めないうちから予測して、例えば敵が打つという、打つの「う」の字の頭を抑え、その後をさせないようにすることをいう。 意図のしょっぱな、枕をおさえるのだ。 敵がかかるという「か」の字をおさえ、とぶという「と」の字の頭をおさえ、切るという「き」の字の頭をおさえる。 みな同じである。 敵が技をしかけてきた場合、どうでもいいことは敵の自由にさせておき、重要なことはこちらがおさえ、敵にはさせないようにすること、これが兵法の専売特許だ。 ただ敵のすることをおさえよう、おさえようとして後手に回ってしまってはいけない。 まず自分自身どんな場合も、道にのっとって技を繰り出す〓うちに、敵も技をしかけようとする、そのしょっぱなを見抜いておさえ、どの技も殺し敵を自由にあしらえることが、兵法の達者であり鍛錬の賜物といえるのだ。 枕をおさえるということをよくよく研究して見るように。 一 渡を越す 渡を越すということが大事だ。 海を渡る場合に瀬戸という場所がある。 または四十里五十里にもおよぶ長い海原を越える場所を渡という。 人の世を渡っていく場合にも一生のうちには渡を越す、つまり難所を乗り切らねばならない場面も多々あるだろう。 航海においてどこが渡にあたるかを知り、船の性能を把握し船出の吉凶を占い、友舟が出なくてもその時々の潮の流れを知り、時には帆風に頼り、時には追い風を受けて、もし風向きが変わっても二里三里程度であれば櫓をこいででも港に着くのだと思い、船を乗りこなして渡を越すのである。 このように人の世を渡る場合も、一大決心をして渡を越えなくてはならない場合がある。 兵法において戦いの中で渡を越すことが重要である。 敵の実力を見抜き自分の能力も冷静に判断して、兵法のセオリーにのっとって渡を越すことは、よい船頭が船路を乗り切るのと同じことだ。 渡を越えてしまえば安心だ。 渡を越すということは敵に劣勢をもたらし、自分が先行しほとんど勝ったも同然となることである。 合戦の兵法にも一対一の勝負にも渡を越すという意味は重要だ。 よく研究すること。 一 気色を読む 気色を読むということは、集団の兵法では敵陣の盛衰を知り、相手方の集団心理を見抜き、戦況を検分し、敵兵全体の気色をよく読んだ上で、自軍のどのような攻撃で、兵法の理に適い確実に勝てるかをわきまえて、先手を取って戦うことである。 また、一対一の兵法においても、敵の流派を熟知し、パーソナリティをよく把握して長所短所を見抜き、敵の意表をつく戦術でもって今調子付いているか不調か、またその間のリズムの交代パターンを捉えて先手を取ることが大事だ。 物事の表面に現れる気色というものは、直感をよく働かせれば必ず見えるものだ。 兵法を自在に操れる境地に達すれば、敵の心理がよく見えて勝つ方法が多くなるはずだ。 工夫しなさい。 一 剣を踏む 剣を踏むということは、兵法専用に使われる用語である。 まず集団での兵法において、弓・鉄砲で敵方が攻撃してくる場合、敵はまず弓・鉄砲で撃ちかけてきて、その後切り込んでくるわけだから、こちらも同時に弓をつがい鉄砲に火薬を込めたりし、その後かかろうとすればタイミングが遅れて、敵陣に押し入ることが出来ない。 弓・鉄砲を敵が撃ち込んでくるその真っ最中に、敵陣に飛び込むのだ。 早く斬り込んでしまえば敵は矢もつげないし鉄砲を撃つひまもない。 敵がしかけてきたらそれをまともに受けて、その上から敵を踏みつけて勝つ戦術である。 また、一対一の兵法でも、敵が打ち出した太刀の後を受けて打ち込めば、どたばたとした打ち合いとなり、いたずらに長引くばかりである。 敵の打ち出す太刀を足で踏みつける気持ちで、打ち出しの時点で競い勝ち、二の太刀を敵が出せないようにしてしまうのだ。 踏むといったのは何も足だけではない。 身体でも踏み心でも踏み、もちろん太刀でも踏み、二度目の攻撃を封じ込めてしまうようにするのだ。 これが物事の先手を取るという心だ。 敵の攻撃と全く同時にというわけではない。 即座に後を抑えるという心だ。 よく研究して見なさい。 一 崩れを知る 崩れというものは、物事によくある。 何家が崩れる、身が崩れる。 敵が崩れるのも時のめぐりあわせで、拍子が狂って崩れるのだ。 集団の兵法でも敵が崩れる拍子を見抜き、そのタイミングをはずさず追い立てることが重要だ。 崩れるタイミングを見逃せば、また盛り返してしまう。 一対一の勝負でも戦いの最中に、敵の拍子が狂って崩れ目が出てくるのだ。 その瞬間を見逃せばまた立ち直り、新たに攻撃してくるので勝負にけりがつかない。 その崩れ目を捉え敵が体勢を立て直せないよう、確実に追い立てることが大事だ。 追いかけることは直接的で強い攻撃となる。 敵が立ち直れないよう、打ち放すのだ。 打ち放すということをよく考えてほしい。 離れないということは、とかくぐずぐずしがちなのだ。 工夫して見なさい。 一 敵になる 敵になるということは、自分自身を敵の立場に置き換えて考えて見ることである。 世間の例から、強盗が侵入先に立て籠もった場合など、犯人を強く恐ろしいものと考えがちである。 ひとたび強盗の身になって考え直すと、世の中の人すべてを敵に回し、逃げ込んで、にっちもさっちもいかなくなっている気持ちなのである。 立て籠もるのは雉、取り囲むのは鷹なのだ。 よく考えて見なさい。 集団の兵法でも敵を過大評価して、とかく慎重になりがちだ。 よい軍を率い兵法の戦略を熟知し、敵の攻略法がわかっているのなら何も心配はいらない。 一対一の兵法でも敵の身になって考えよ。 兵法を会得し剣の術理にも明るく、この道の達人であれば、敵はきっとかなわないと思っているはずだ。 考慮しなさい。 一 四手を離す 四手を離すとは、敵も自分も同じ状況になり、互いににらみ合って、戦いが膠着してしまっているとき、張り合う心をさらりと捨てて、別の方法で戦局を打開することをいう。 集団の兵法でも四手の状態になれば、戦線が膠着し兵力も損傷するものだ。 一時も早く考え直し、敵の意表をつくような方法で事態を打開することが最優先課題だ。 また一対一の兵法でも四手になっていると思ったら、即座に発想を転換し、敵の状況を見極めて、全く別の手段で思い切って出ることが肝心だ。 よくわきまえなさい。 一 陰を動かす 陰を動かすということは、敵の心中が読めないときにとる手である。 集団の兵法でどうしても敵状が見えない時など、自軍より強く攻撃を開始する振りをして見せ、敵の手の内を見るものだ。 手の内が見えてしまえば、それに応じた手段で勝つのはたやすいだろう。 また一対一の兵法でも、敵が太刀を後に構えたり、脇に構えたりして意図が読めない時、こちらから不意に打ち込む様子を見せれば、敵が本当に使おうとしていた動きが太刀に表れるものである。 事露見すれば、その太刀筋に対応して確実に勝てることがわかる。 ただこのとき油断して、攻撃の拍子がずれないようにしなくてはならない。 よく稽古すること。 一 移らせる 移らせるということは、いろんなものにある。 眠気も移るし、あくびも移る。 時間の経ち方も移るものだ。 集団の兵法で敵が浮き足立ち、決戦を急いでいる様子が見えたとき、全くこれを無視していかにもゆったりと構えてみせる。 敵もそれでは、と感じ気勢がゆるむものである。 この移ったと思われた瞬間、自軍より空の境地で激しく急襲し勝利を得るのだ。 一対一の兵法でも、わざと身体も心もリラックスして見せ、敵が受けてゆるむや否や、強く激しく先手を仕掛けて勝つことが大事だ。 また酔わせるといって、これと似たようなことがある。 ひとつは退屈の心、ひとつは落ち着かなさ、ひとつは弱気。 よく考えてみるように。 一 むかつかせる むかつかせるということはいろいろある。 ひとつにはきわどいという感覚。 ふたつめは無理、無茶。 みっつめは予期せぬこと。 よく考えなさい。 集団の兵法では敵にむかつかせることが大事だ。 敵が予想もしなかった局面で激しくしかけ方針も立たないうちに手段を講じ、先手をとって勝つことが大事だ。 また一対一の兵法でも序盤は余裕を見せておき、急転して急襲するのだ。 敵の心の動揺、心理状態に応じて息をもつかせず、その機を逃さず勝ちに行くことが肝心だ。 よく検討して見なさい。 一 まじる 混じるということは、敵と自分が向かい合い互いに強く牽制しあい、埒が明かないと思ったとき、そのまま敵とあえて混じり合ってしまうのだ。 混じり合ううちにチャンスを見つけて勝つことが大事だ。 大軍でも小軍でも敵味方はっきり分かれ向き合っていたら、双方張り合って勝敗がつかなくなってしまう。 こんなときは敵軍に混入し、どちらが敵だか味方だかわからなくしてしまえ。 混戦時の戦術に従って勝つ方法がわかっているので、こちらが勝つことは必至だ。 よく研究して見なさい。 一 角にさわる 角にさわるという意味は、どんなものでも強く重いものを動かす場合、まともには動かしにくいということである。 集団の兵法では敵の軍容を見て、強兵を配備した戦陣の先端の角に目をつけるのだ。 すべての物事は角が損なわれると全体がそれにつれて損なわれるものだ。 いろいろと損なわれている部分でも、特に角を、角をと狙って勝利を得ることがコツだ。 一対一の兵法では敵の身体の角を傷つけ、身体全体を弱らせ、崩れるようになったらもう勝てる。 これらをよく検討して、必勝ポイントを見極めることが大切だ。 一 うろたえさせる うろたえさせるということは、敵が平常心を保てないようにすることである。 集団の兵法では、戦場で敵軍の心理を分析し、当兵法の作戦を応用し敵の注意力をあちらこちらに分散させ、ああではないかこうではないかと疑心暗鬼に陥らせ、遅いと思わせ早いと思わせ、敵がうろたえたと思うタイミングをはずさず、確実に勝利を得る方法である。 また一対一の勝負では時機を捉えていろいろな技をしかけ、打つと見せ突くと見せ入ると見せては敵がうろたえる気配を察し、自在にあしらって勝つのだ。 これが戦いのコツである。 よく研究しなさい。 一 ひしぐ ひしぐということは、敵が弱いと見たら自分はより強いと思い、圧し潰すという感覚である。 集団の兵法では敵が小勢と見抜いた時、または大軍であっても浮き足立ち弱気になっていると見透かせば、これを圧し潰す。 はなからかさにかかり、ぺちゃんこに圧し潰すのである。 圧し潰し方が半端だとぶり返すことがある。 拳の中でぐしゃりと握り潰すのだ。 一対一の兵法では敵として不足なもの、戦いのリズムが取れないもの、逃げ腰のものなどは、一呼吸も間を与えず目も合わせず一気に叩き潰してしまうことが大切だ。 立ち直れないようにしてしまうことが一番だ。 よく研究して見なさい。 一 山海の替え 山海の心とは同じ相手との戦いで、同じことを何度も繰り返すのは愚策である、ということだ。 同じ失敗はまあ二回くらいは仕方がないとして、三回やるのはバカである。 敵に策を仕掛けて一回目は効かなかったとしよう。 これをもう一回やって見たとしても、最初程度の効果すらも望めないだろう。 この場合全く別の手を不意に仕掛けそれでもダメなら、また違う手を出して見る。 そういうわけで敵が山だと予想したら、海を出し、海と思ったら山を出す。 これが兵法の本道だ。 自分なりによく研究すること。 一 生まれ変わる 生まれ変わるとは、自分と敵が戦い混戦模様に陥り、決着が付かない時、それまでの経緯を忘れ、物事が生まれ変わったように、新しく生まれたリズムで勝利を得ることだ。 生まれ変わるとは、常時敵と自分が不協和音を出していると感じたとき即座に心を一新し、全く別の方策で勝つことだ。 集団の兵法でも生まれ変わるという戦術を認識しておきたいものだ。 兵法の方法論を応用すればすぐさま理解できるだろう。 よく考えて見なさい。 著者について いままでありそうでなかった、いや、本当は有名な古典籍なら、どれについても一冊は普通にあってもよかったタイプの本。 現代人にもさーっと読み通せるように、シンプルに現代語訳しただけの古典。 こういうものにはなかなかお目にかかれない。 普通は、注釈やら何やら周りにいろいろついている、はたまた、翻訳するにしても「訳者による着色済み」というのが普通だ。 確かに、その古典を読んで得た知識を即何かに役立てたいと思うなら、識者の注釈つきで理解するほうが道は早そうだ。 一度で用がすむように思う。 でも、その前段階、つまり「とにかくなんて書いてあるのか知りたい」、「余計な補足知識に目移りしないで、まずはあらすじを知りたい、しかもあまり時間をかけずに…」という欲求だってあるはずだ。 そういうシンプルな要求に応える本だと思う。 もちろん歴史・古典の専門家からすればあまり必要のないことかもしれないし、だったら原典で読めば、という声も聞こえそうだ。 が、原典を読むには時間がない、そんな気力はちょっと……というごくごく一般向けには、このレベルの情報もあったら非常に有難い。 「タイトルだけは知っている」レベルの古典が、面白い・面白くないは別として、少なくとも「あらすじくらいは目を通したことがある」ものに近づくわけだし、とっつきにくいという理由だけで、面白いもの・役立つものが歴史の中に埋もれていくことに比べれば、何の調理もしていないことなど、かえって良心的な気さえする一冊。

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宮本武蔵に着眼し、五輪で頂点を目指す羽根田卓也

剣豪 宮本 武蔵 が 書い た 兵法 の 極意 書 は

宮本武蔵自画像 (蔵。 を用いる兵法の開祖。 の兵法家・との戦いやでのとの決闘が有名で、後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。 特にの小説が有名であるが史実と異なった創作が多いことに注意する必要がある。 外国語にも翻訳され出版されている自著『』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載 がある。 国のに指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。 名前 [ ] は 、は 宮本、または 新免。 は 辨助 (べんのすけ)、()は 、は 玄信(はるのぶ)である。 は 二天、また 二天道楽。 著書『』の中では 新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている。 弓削の墓碑は「新免武蔵居士」、養子・が武蔵の死後9年目の承応3年()に建てた『新免武蔵玄信二天居士碑』(以下、)には「末流新免武蔵玄信二天居士」とある。 武蔵死後71年目の『』(1716年)で 政名なる名が紹介された。 これを引用した系図や伝記、武蔵供養塔が広く紹介されたことから諱を「政名」とする武蔵の小説や紹介書が多数あるが、二天一流門弟や小倉宮本家の史料にこの「政名」は用いられていない。 逆に史的信頼性が完全に否定された武蔵系図等で積極的に用いられている。 出生 [ ] 生年 [ ] 『五輪書』の冒頭にある記述「歳つもりて六十」に従えば、20年()に60歳となり、生年は12年()となる。 江戸後期にまとめられた『小倉宮本家系図』 、並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には10年()に生まれ、正保2年(1645年)64で没したと記されている。 出生地 [ ] 『五輪書』に「生国」の記載があり、養子・伊織が建立した『小倉碑文』、江戸中期の地誌『播磨鑑』や「泊神社棟札」(兵庫県加古川市木村)等の記載による播磨生誕説(兵庫県高砂市米田町)と、江戸時代後期の地誌『』の宮本村で生まれたという記載による美作生誕説がある。 美作生誕説は、の小説『宮本武蔵』などに採用されたため広く知られ、および(旧)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っている。 出自 [ ] 初決闘の地を記念した石碑() 『五輪書』には13歳で初めてのと決闘し勝利し、16歳での秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。 5年()のでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍のに仕官していたことを証明する黒田家の文書 が存在することから、父と共に当時を領していたに従い東軍として九州で戦った可能性が高い。 『五輪書』には21歳の頃に 、京都で天下の兵法者(と考えられる) と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。 この内容は『』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。 武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。 これは慶長年間に豊前領(現在は下関市域)の舟島()で、なる兵法者 と戦ったとされるものである。 この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。 ではの客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。 その後、主・と交流を持ちながら活動。 では町割(都市計画)を行い、・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、)を行っている。 この時期、開祖・と明石で試合を行ったことが伝えられている。 の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。 元年()、に立ち寄った際、円明流を指導する。 その後も家老・の要請に弟子のを推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。 以後、尾張藩および近隣のには複数派の円明流が興隆する。 寛永3年()播磨の地侍・田原久光の次男・を新たに養子とし、宮本伊織貞次として主・に出仕させる。 寛永期、 開祖・が記した『青楼年暦考』に、寛永15年()のへ武蔵が出陣する際の物語 が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。 同様の内容はが享保5年()に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。 これらの史料に書かれた内容はなどの文芸作品の題材となっている。 では、主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である主・の後見として出陣している。 乱後に主のに宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。 また、小倉滞在中に忠真の命でのと試合したことが伝えられている。 武蔵塚() 寛永17年(1640年)主・に客分として招かれ熊本に移る。 7人扶持18石に合力米300石が支給され、東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、 が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。 同じく客分の遺児・と共に忠利に従いに招かれるなど重んじられている。 翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。 『』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。 この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。 寛永20年()、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・で『五輪書』の執筆を始める。 また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『』とともに『五輪書』を兵法の弟子・に与えている。 2年()、千葉城の屋敷で亡くなる。 享年62。 墓は龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「」。 赤坂のには、養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『』)がある。 武蔵の兵法は、初めと称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。 後世では武蔵流等の名称も用いられている。 熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。 また、孫之允の弟子の一人は黒田家に二天一流を伝えている。 決闘伝説に関する諸説 [ ] 吉岡家との戦い [ ] 武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。 吉岡家は代々の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。 の時に新免無二を召して吉岡と兵術の試合をさせた。 三度の約束で、吉岡が一度、新免が二度勝利した。 それにより、新免無二は「日下無双兵法術者」の号を賜った。 このこともあって、武蔵は京で吉岡と戦ったのである。 最初に吉岡家の当主であると洛外蓮台野で戦った。 武蔵は木刀の一撃で清十郎を破った。 予め一撃で勝負を決する約束だったので命を奪わなかった。 清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、治療の後、清十郎は回復したが、兵術をやめ出家した。 その後、と洛外で戦った。 伝七郎の五尺の木刀を、その場で武蔵が奪いそれで撃ち倒した。 伝七郎は死亡した。 そこで、吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎とで勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、武蔵を殺害しようとした。 武蔵はそのことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破った。 この一連の戦いにより、吉岡家は滅び絶えた。 が武蔵の菩提を弔うために承応3年(1654年)に 現 山頂に建立した顕彰碑文。 『小倉碑文』などの記録は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られる。 吉岡家の記述に限定すれば、武蔵に完敗し引退した清十郎、死亡した伝七郎、洛外下松の事件の記録は他の史料になく、創作の可能性がある。 また、兵仗弓箭(刀・槍・薙刀などの武具と弓矢)で武装した数百人の武人を相手に一人で勝利するなどの記述は現実離れしている。 同様に新免無二と吉岡家との足利義昭御前試合に関する逸話も他の史料になく、因縁を足利将軍家と絡めて描くことで物語性を高めるための創作の可能性がある。 の二天一流師範、が享保12年()に著した武蔵の伝記『』にも、吉岡家との伝承が記されている。 これを要約すると以下の通り。 清十郎との試合当日、武蔵は病になったと断りを入れたが、幾度も試合の要求が来た。 竹輿に乗って試合場に到着した武蔵を出迎え、病気の具合を聞く為に覗き込んだ清十郎を武蔵は木刀で倒した。 清十郎は後に回復したが、兵術を捨てて出家した。 伝七郎は洛外で五尺の木刀を用いて武蔵に立ち向かったが、木刀を奪われ撲殺された。 又七郎は、洛外のあたりに鎗・薙刀・弓矢で武装した門人数百人を集めて出向いた武蔵側にも十数人門人がおり、若武者の一人が武蔵の前に立つが弓矢で負傷した。 これを見た武蔵は門人達を先に退却させ、自らがとなって、数百人の敵を打払いつつ退却した。 武蔵は寺に逃げ込み、寺伝いに退却し、行方をくらませた。 与力同心がその場に駆けつけ、その場を収めた。 この事がきっかけで吉岡家は断絶した。 この文書には『小倉碑文』の全文が転記されており、碑文の内容を基に伝承を追記し、内容を発展させたものであると考えられる。 ・の家臣で二天一流師範、豊田正脩が宝暦5年()に完成させた『』には、正脩の父・豊田正剛が集めた武蔵の弟子達が語った生前の武蔵に関する伝聞が記載されている。 これには、道家角左衛門が生前の武蔵から度々聞いた話として、洛外下松での詳しい戦いの模様が記されている。 これによると、 武蔵に従いたいという弟子に対して、集団同士の戦闘は公儀が禁ずるところであると断った。 清十郎・伝七郎のときは、遅れたことで勝利したので、今回は逆のことをやることにした。 下松に行く途中に八幡社の前を通ったとき、普段はやらない勝利祈願をしようとしたが止めた。 まだ夜のうちに下松に来て松陰に隠れていた。 清十郎の子である又七郎が門弟数十人を連れてやってきた。 「武蔵待得タリ」と叫びながら現れ、又七郎を斬り殺した。 門弟が斬り付け、また、半弓で射られ矢が武蔵の袖に刺さったが、進んで追崩したため門弟は狼狽し縦横に走散し、勝利を得た。 この説話は、武蔵が度々語ったものとして当時の細川藩の二天一流の門弟間に伝えられていた伝聞を記録したものである。 『武公伝』の内容は正脩の子・豊田景英によって『二天記』に再編集され、明治42年(1909年)に熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』(通称「顕彰会本」)で『二天記』が原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『』で顕彰会本の内容を用いたことから現代にも広く知られるようになった。 異説 [ ] が貞永元年()に著した『吉岡伝』に武蔵と吉岡家の対決の異説が記されている。 この文書には吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重という二人の吉岡側の人物と、の家臣で無敵流を号し二刀の名手で北陸奥羽で有名であるとの肩書きの宮本武蔵が登場する。 洛外下松のくだりは記されていない。 また試合内容が碑文と全く異なるため、直綱が清十郎で直重が伝七郎であると単純に対応づけすることはできない。 要約すると以下の通り。 「源左衛門直綱との試合の結果、武蔵が額から大出血し、直綱勝利と引分けの2つの意見が出た。 直綱は再試合を望んだが武蔵はこれを拒否し、又市直重戦を希望した。 しかし直重戦では武蔵が逃亡し直重の不戦勝となった。 」 これは宮本武蔵と吉岡家が試合をし引き分けたという内容の最初の史料である。 ただし、『吉岡伝』は朝山三徳・鹿島林斎という原史料不明の武芸者と同列に宮本武蔵が語られ、前述のようにその肩書きは二刀を使うことを除き現実から乖離しており、創作の可能性がある。 この史料は昭和になりが小説『真説宮本武蔵』の題材にしたことから、武蔵側の記録に対する吉岡側の記録として紹介される機会が多い。 また巷間には、武蔵吉岡戦を引き分けとする逸話が伝承されている。 日夏繁高が享保元年()に著した『』には、巷間に伝わる武芸者の逸話が収録されているが、ここに武蔵と吉岡が引き分けた二つの話が記されている。 柏崎永以が1740年代に編纂した『古老茶話』も巷間の伝承を記録したものであるが、宮本武蔵と吉岡兼房の対戦が記されており、結果はやはり引き分けと記されている。 また『武公伝』には道家角左衛門の説話として、御謡初の夜の席での雑談で、志水伯耆から武蔵が先に清十郎から打たれたという話があるが本当か、と武蔵が訊ねられ武蔵が否定する話が記述されている。 『武公伝』の話に従えば、晩年の武蔵は弟子等に盛んに吉岡に勝利したことを語っていたが、武蔵の生前に巷間に「吉岡が勝利した」という異説があったと考えることができる。 その後の吉岡家 [ ] 『小倉碑文』や『兵法大祖武州玄信公伝来』『武公伝』には武蔵との戦いで吉岡家が絶えたとあるが、吉岡家がその後も存続したことは『駿河故事録』等、いくつかの史料からも推測できる。 それらの史料によると、慶長19年()に禁裏での一般にも開放された猿楽興行で、(建法)なる者が警護の者と諍いをおこし切り殺されるという事件がおこり、これにより兵術吉岡家は滅んだとあり、武蔵戦以降も吉岡家は存続している。 『本朝武芸小伝』にも猿楽興行の異説があり、事件を起こしたのは吉岡又三郎兼房であり、京都所司代・は事件の現場に吉岡一族の者が多く居たが、騒ぎたてず加勢しなかったため吉岡一族を不問にしたとある。 この説を取るならば武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。 『吉岡伝』にも同様の記録があり、吉岡清次郎重堅が事件を起こし、の命により兵術指南は禁止されたが吉岡一族の断絶は免れたとある。 更に翌年の大坂の陣で吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重の兄弟が豊臣側につき大坂城に篭城、落城とともに京都の西洞院へ戻り染物を家業とする事になったとあり 、この説でも武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。 各文書の比較 [ ] 文書名 執筆年 執筆編者 第一戦 第二戦 第三戦 吉岡家 対戦者 結果 対戦者 結果 対戦者 結果 小倉碑文 承応3年 (1654年) 宮本伊織 吉岡清十郎 吉岡清十郎 引退 宮本武蔵 勝利 吉岡伝七郎 吉岡伝七郎 死亡 宮本武蔵 勝利 吉岡亦七郎 宮本武蔵 勝利 断絶 吉岡伝 貞永元年 (1684年) 福住道祐 吉岡直綱 宮本武蔵 出血 吉岡直綱 勝利 引分両論 吉岡直重 宮本武蔵 逃亡 吉岡直重 不戦勝 なし 存続 本朝武芸小伝 (二説) 正徳4年 (1714年 日夏繁高 吉岡 引分 なし 存続 兵法大祖 武州玄信 公伝来 享保12年 (1727年) 二天一流師範 黒田藩士 丹治峯均 吉岡清十郎 吉岡清十郎 引退 宮本武蔵 勝利 吉岡伝七郎 吉岡伝七郎 死亡 宮本武蔵 勝利 吉岡亦七郎 宮本武蔵と門人 退却に成功 断絶 古老茶話 1740年代 柏崎永以 吉岡兼房 引分 なし 武公伝 宝暦5年 (1755年) 二天一流師範 松井氏家臣 豊田正脩 吉岡清十郎 吉岡清十郎 引退 宮本武蔵 勝利 吉岡伝七郎 吉岡伝七郎 死亡 宮本武蔵 勝利 吉岡亦七郎 吉岡亦七郎 死亡 宮本武蔵 勝利 断絶 巖流島 [ ] 巖流島に建つ銅像(山口県下関市) 武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巖流島の決闘」といわれるものである。 これは慶長年間に当時領であった舟島で、岩流 なる兵法者と戦ったとされるものである。 試合の行われた時期については諸説あり、定かではない。 享保12年(1727年)に丹治峯均によって記された、黒田藩の二天一流に伝わる伝記『』では「辨之助十九歳」と記述しており、ここから計算すると慶長7年(1602年)となる。 天明2年(1782年)に丹羽信英によって記された、同じく二天一流に伝わる伝記『』では「慶長六年、先師十八歳」と記述しており、慶長6年(1601年)となる。 これらの説では武蔵が京に上り吉岡道場と試合をする前の十代の頃に巖流島の試合が行われたこととなる。 一方、熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『』では試合は慶長17年(1612年)とされる。 同様に熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『』では慶長17年(1612年)4月とされる。 これらの説では武蔵が京に上った後、巖流島の試合が行われたことになる。 また『二天記』内に試合前日に記された武蔵の書状とされる文章に4月12日と記されており、ここから一般に認知され記念日ともなっている慶長17年4月13日説となったが、他説に比して信頼性が高いという根拠はない。 この試合を記した最も古い史料である『』の内容を要約すると、 宮本武蔵玄信が豊前国に来て二刀兵法の師になった。 この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。 門人同士の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。 試合の結果、小次郎が敗れた。 小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。 勝負に敗れ気絶した後、蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。 それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。 武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。 延元は武蔵を門司城に保護し、その後鉄砲隊により警護し豊後国に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。 武蔵が送り届けられたのが豊後国のどこであったのかには以下の説が挙げられる。 豊後国杵築は細川家の領地で慶長年間は代に・が任じられていた。 宮本無二助藤原一真(原文は宮本无二助藤原一真)が慶長12年()、細川家家臣・友岡勘十郎に授けたの免許状が現存する。 これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、武蔵は杵築に住む無二の許へ送られたことになる。 当時、主であり、の義弟であった の慶長18年(1613年)の日記に延俊に仕えていた無二なる人物のことが記されている。 これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、試合当時も豊後日出に在住していた無二の下へ武蔵は送られたことになる。 様々な武芸者の逸話を収集した『』()にも巖流島決闘の伝説が記されており、の家臣・中村守和(十郎右衛門)曰くと称して、『沼田家記』の記述と同様、単独渡島の巖流に対し武蔵側が多くの仲間と共に舟島に渡っている様子が語られている。 『』(1716年、著)では、武蔵は細川忠利に仕え京から小倉へ赴く途中、佐々木岸流から挑戦を受けたので、舟島での試合を約し、武蔵は櫂を削った二尺五寸と一尺八寸の二本の木刀で、岸流は三尺余りの太刀で戦って武蔵が勝ったとしている。 江戸時代の地理学者・が『二天記』とほぼ同時代の天明3年()に『』という九州の紀行文を記した。 ここに当時の下関で聞いたという巖流島決闘に関する民間伝承が記録されている。 あくまでも試合から100年以上経った時代の民間伝承の記録であり、史料としての信頼性は低いが、近年再発見された『沼田家記』の記述に類似している。 内容を現代語訳すると以下の通りである。 岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。 縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。 赤間ヶ関(下関)で地元の伝承を聞いたが、多くの書物の記述とは違った内容であった。 岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、浦の者が「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください」と岩龍を止めた。 しかし岩龍は「武士に二言はない、堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」と言って強引に舟島に渡った。 浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。 しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、今のように岩龍島と呼ぶようになった。 真偽の程はわからないが、地元の伝承をそのまま記し、後世の参考とする。 ある者は宮本の子孫が今も小倉の家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向を向いているという。 『武公伝』には、巖流島での勝負が詳述されている。 これによると 巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巖流と号した。 その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。 慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。 興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。 勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。 勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。 武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。 皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。 武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。 興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。 試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。 やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。 その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。 待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。 木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。 武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。 勝つつもりならば大事なを捨てはしないはずだ。 )」と語った。 小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。 同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。 倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。 武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。 武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。 この話は、武蔵の養子・伊織の出自が泥鰌捕りの童であったという話と共に、戦いの時に武蔵が島に渡るときの船の漕ぎ手であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されている。 『武公伝』で慶長17年(1612年)に行なわれたとされる巌流との戦いで漕ぎ手だった者が100年後に正脩の祖父の豊田正剛に語った話とされている。 仮に、この勝負の内容が、事実であれば、細川家でこれだけの事件が起こったにもかかわらず、それについての記述が『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕える松井家中になく、藩外の怪しげな人物からの伝聞しかなかったことになる。 また、前述の『沼田家記』の内容とも大きく異なっている。 『武公伝』では武蔵の弟子たちが語ったとされる晩年の武蔵の逸話が多く記載されているが、岩流との勝負については、村屋勘八郎の話以外、弟子からの逸話はなく、松井家家臣の田中左太夫が幼少の頃の記憶として、松井興長に小次郎との試合を願い出た武蔵が、御家老中寄合での決定を知らず下関に渡り、勝負の後に興長に書を奉ったという短い話のみ記載されているのみである。 これは、晩年の武蔵が度々吉岡との勝負を語っていたという逸話と対照的であり、『五輪書』に岩流との勝負についての記述が全くない事実を考えると晩年の武蔵は舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測することができる。 『』()、『』()、『武公伝』(に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、『武公伝』を再編集した『二天記』()によって、岩流の詳しい出自や氏名を佐々木小次郎としたこと、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が疑わしい内容によって詳述された。 『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』で原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらにが小説『』でその内容を用いたことから広く知られるようになった。 また、様々な文書で岩流を指し佐々木と呼称するようになるのは、元文2年(1737年)巖流島決闘伝説をベースとした作の歌舞伎『敵討巖流島』が大阪で上演されて以降である。 この作品ではそれぞれに「月本武蔵之助」「佐々木巖流」という役名がつけられ、親を殺された武蔵之助が巖流に復讐するという筋立てがつけられている。 史料を比較すると記述に以下のような差異が認められる。 文書名 執筆年 執筆者・編者 宮本武蔵 巖流 年齢 加勢 名称 年齢 出自 小倉碑文 承応3年 (1654年) 宮本伊織 不明 武蔵一人 岩流 不明 兵術の達人 沼田家記 寛文12年 (1672年) 熊本藩士・沼田家家人 不明 武蔵の弟子達が隠れて来ていた 小次郎 不明 豊前の兵法師範 江海風帆草 宝永元年 (1704年) 吉田重昌 十八歳 武蔵一人 上田宗入 不明 武蔵を批判し、無二と因縁がある長門の兵法師範 本朝武芸小伝 正徳4年 (1714年 日夏繁高 不明 「武蔵一人」「仲間を連れてきていた」の両論併記 巖流 不明 兵法遣い 兵法大祖武州玄信公伝来 享保12年 (1727年) 丹治峯均 十九歳 武蔵一人 津田小次郎 不明 無二が恐れた長門の兵法師範 武公伝 宝暦5年 (1755年) 豊田正脩 二十九歳 武蔵一人 巖流小次郎 不明 富田勢源の弟子で細川忠興が登用した豊前の兵法師範。 二天記 安永5年 (1776年) 豊田景英 二十九歳 武蔵一人 巖流小次郎 (佐々木小次郎) 十八歳 富田勢源の弟子で細川忠興が登用した豊前の兵法師範。 兵法先師伝記 天明2年 (1782年) 丹羽信英 十八歳 武蔵一人 津田小次郎 不明 無二と幾度も戦い決着しなかった豊前の兵法者。 西遊雑記 天明3年 (1783年) 古川古松軒 不明 門人の士四人與力 佐々木岩龍 不明 伊崎から渡島した(長門側の)武芸者。 人物 [ ] 民間伝承 [ ] 武蔵にゆかりのある土地、武道の場などで語られる事があるが、明確な根拠や史実を記したとされる史料に基づくものではない。 人並み外れた剛力の持ち主で片手で刀剣を使いこなすことができた。 これが後に二刀流の技術を生み出すに至った。 祭りで太鼓が二本の撥を用いて叩かれているのを見て、これを剣術に用いるという天啓を得、二刀流を発案した。 自身の剣術が極致に達していた頃、修練のために真剣の代わりに竹刀を振ってみると、一度振っただけで竹刀が壊れてしまった。 そのため木剣を使い始めたという。 を繰り返すうちに次第に木剣を使用するようになり、他の武芸者と勝負しなくなる29歳直前の頃には、もっぱら巖流島の闘いで用いた櫂の木刀を自分で復元し に用いていた。 二本差しや木刀を用いるようになったのは、の刀身が構造上壊れやすくなっているので、勝負の最中に刀が折れるのを嫌ったため。 吉岡家の断絶は、武蔵が当時における、武者修行の礼儀を無視した形で勝負を挑んだため、さながら小規模な合戦にまで勝負の規模が拡大し、吉岡がそれに敗れてしまったためである。 芸術家としての武蔵 [ ] 枯木鳴鵙図 武蔵没後21年後の6年()に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が既に記されている。 また『』には、「武公平居閑静して(中略)連歌或は書画小細工等を仕て日月を過了す、故に武公作の鞍楊弓木刀連歌書画数多あり」と書かれている。 現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、熊本での作品は、細川家家老で主であった松井家や晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家を中心に残されたものが所有者を変えながら現在まで伝えられている。 水墨画については二天の号を用いたものが多い。 筆致、画風や画印、署名等で真贋に対する研究もなされているが明確な結論は出されていない。 主要な画として、「鵜図」「正面達磨図」「面壁達磨図」「捫腹布袋図」「芦雁図」(以上蔵)「芦葉達磨図」「野馬図」(以上松井文庫蔵)「枯木鳴鵙図」(蔵)「周茂叔図」「遊鴨図」「布袋図」(以上蔵)「布袋観闘鶏図」(蔵)などがある。 書としては、「長岡興長宛書状」(蔵)「有馬直純宛書状」(吉川英治記念館蔵)「独行道」(蔵)「戦気」(松井文庫蔵)が真作と認められている。 伝来が確かな武蔵作の工芸品としては、黒漆塗の「鞍」、舟島での戦いに用いた木刀を模したとされる「木刀」一振。 二天一流稽古用の大小一組の「木刀」が松井家に残されている。 また、武蔵作とされる海鼠透鐔が等にいくつか残されているが、武蔵の佩刀伯耆安綱に付けられていたとされる、寺尾家に伝来していた素銅製の「海鼠透鐔」(個人蔵)が熊本県文化財に指定されている。 「竹村武藏 といふ者あり。 自己に ( けんじゆつ )を 練磨 ( れんま )して 名人 ( めいじん ) 也 ( なり )。 ( たんば )に 候 ( さふらひ )て ハ ( は )、にて 云ハ ( いふは ) ( せいもく )も武藏 強 ( つよ )し。 」「 然 ( しか )るに第一の ( きず )あり。 洗足 ( せんそく ) ( ぎやうずい )を嫌ひて、 一生 ( いつしやう ) ( もくよく )する事なし。 外へにて出、 候 ( さふら )へは 是 ( これ )を 拭 ( のご )せ 置 ( おく ) 也 ( なり )。 夫故 ( それゆゑ )衣類 申 ( まをす ) 故 ( ゆゑ )、 其 ( その ) 色目 ( いろめ )を隠す 爲 ( ため )に 天鵡織 ( てんむおり ) 兩面 ( りやうめん )の衣服を着、 夫故 ( それゆゑ )歴々に ( うと )して 不近付 ( ちかづけず )。 」 — 『渡辺幸庵対話』宝永六年九月十日条 武蔵像と一乗寺下り松の古木/境内()に所在。 これによれば、の腕前はを物ともしない相当なものであったらしい。 体には一つの大きな疵があって印象に残った様子である。 足を洗ったり行水をすることは嫌いで、ましてや沐浴をすることなどあり得ない。 で外を出歩き、体などの汚れは布や何かで拭って済ませている。 汚れを隠すために天鵡織で両面仕立ての衣服を着ているが、隠しおおせるわけもなく、それゆえに偉い方々とお近付きになれない、という。 武蔵が生涯に入らなかったといわれているのは、この史料に基づいた話である。 試合の真偽 『』は、(現・)人での使い手である、(現・西部)人での使い手である宍戸某、の人でのとらとの試合を記しているが、『』の原史料である『武公伝』に記載が無く、また、他にそれを裏付ける史料が無いことから、史実ではないと考えられている。 木刀 で後に主になったの依頼により、の試合で使用したを模したと伝えられる武蔵自作の木刀が現在も残っている。 (昭和59年)には、がの『』の放送を記念してこの木刀のを販売した。 円明流時代の高弟 [ ]• 創作への影響 [ ] 巌流島の戦いなど、武蔵に関わる物語は江戸時代から脚色されて、、などの題材にされ、がにに連載した『』によって最強の青年剣士武蔵のイメージが一般に広く定着した。 宮本武蔵を主題とした作品 [ ] 『美家本武蔵 丹波の国の山中にて年ふるを斬図』 小説 [ ]• (1935年—1939年、朝日新聞連載、)• 佐々木小次郎(1949年—1950年、朝日新聞連載、)• (1952年—1957年、)• 二人の武蔵(1956年—1957年、1968年改訂、)• 宮本武蔵の最期(1959年、)• 真説宮本武蔵(1962年、)短編• 宮本武蔵(1967年、司馬遼太郎)• おれの影()短編• 決闘者宮本武蔵(1970年—1973年、)• 武蔵忍法旅(山田風太郎)短編• 宮本武蔵(1983年—1984年、)• 剣豪宮本武蔵(1988年、)• 宮本武蔵(1990年—1996年、)• 捨剣夢想権之助(1992年、)• 素浪人宮本武蔵(1993年—1995年、)• 双剣の客人 - 生国播磨の宮本武蔵(2000年、)• 覇剣 武蔵と柳生兵庫助(2001年、)• 秘剣 宮本武蔵(2001年、)• 剣鬼宮本武蔵(2002年、)• 剣豪たちの関ヶ原(2007年、鳥羽亮)• 行くのか武蔵(2010年、)• 武蔵円明の光(2010年、好村兼一)• 武蔵(2011年、) 映画 [ ]• 宮本武蔵(1929年、千恵プロ、監督:井上金太郎 武蔵:片岡千恵蔵)• 宮本武蔵(1944年、原作:菊池寛 監督: 武蔵:)• (1952年、、武蔵:)• (1959年、松竹、監督:、武蔵:)• (1971年、東宝、監督:内田吐夢、武蔵:萬屋錦之介)• (2003年、監督:千葉誠治、武蔵:)• (監督:)• (1981年、武蔵:)• (1996年、武蔵:)• (2003年、武蔵:)• (2009年、、原案・脚本:、監督:)• (2019年、アークエンタテインメント、監督:、武蔵:)• 原作:吉川英治『宮本武蔵』 も参照。 タイトル 公開年 配給 監督 武蔵役 宮本武蔵 地の巻 1936年 新興 滝澤英輔 宮本武蔵 地の巻 1937年 日活 宮本武蔵 風の巻 1937年 東宝 石田民三 宮本武蔵 草分けの人々 1940年 日活 稲垣浩 片岡千恵蔵 宮本武蔵 栄達の門 1940年 日活 稲垣浩 片岡千恵蔵 宮本武蔵 剣心一路 1940年 日活 稲垣浩 片岡千恵蔵 宮本武蔵 一乗寺決闘 1942年 日活 稲垣浩 片岡千恵蔵 宮本武蔵 決戦般若坂 1942年 大都 佐伯幸三 近衛十四郎 宮本武蔵 二刀流開眼 1943年 大映 伊藤大輔 片岡千恵蔵 宮本武蔵 決闘般若坂 1943年 大映 伊藤大輔 片岡千恵蔵 1954年 稲垣浩 1955年 東宝 稲垣浩 三船敏郎 1956年 東宝 稲垣浩 三船敏郎 1961年 中村錦之助(萬屋錦之介) 1962年 東映 内田吐夢 中村錦之助(萬屋錦之介) 1963年 東映 内田吐夢 中村錦之助(萬屋錦之介) 1964年 東映 内田吐夢 中村錦之助(萬屋錦之介) 1965年 東映 内田吐夢 中村錦之助(萬屋錦之介) 1973年 松竹 TVドラマ [ ]• (1961年、、武蔵:)• (1964年-1965年、、原作:小山勝清、武蔵:)• (1965年-1966年、、武蔵:)• (1968年、、第1話「宮本武蔵」(4回にわたって放送)、武蔵:)• (1981年1月2日、 、原作:小山勝清、 武蔵:)• (1992年、、脚本:、武蔵:)• (1996年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ 、原作:小山勝清、武蔵:北大路欣也)• (2000年、、武蔵:)• 原作:吉川英治『宮本武蔵』 も参照。 タイトル 放映年 放送局 武蔵役 1970年 1975年 フジテレビ 1984年 1990年 テレビ東京 北大路欣也 12時間超ワイドドラマ 2001年 テレビ東京 2003年 NHK 2014年 テレビ朝日開局55周年記念ドラマスペシャル 吹奏楽 [ ]• 1985年度課題曲)• MUSASHI(2002年9月11日、作曲:スティーヴン・メリロ Stephen Melillo 906 STORMWORKS) TVアニメ [ ]• 漫画 [ ]• 宮本武蔵()• (原作: 作画:)• (原作: 漫画:)• (原作:、漫画:)• ()2000-2003• YAIBA 青山剛昌• ()エピソード「宮本武蔵編」(全七話)の主人公 その他の作品 [ ]• ラジオドラマ『宮本武蔵』(1961年-1963年 原作:吉川英治 音楽: 朗読: 1971年にラジオ関東15周年記念レコード(100枚組 )として出版。 2002年より同局で再放送)• コミックソング『宮本武蔵』(1970年 )• 演歌『ムサシ』()• LIVE A LIVE テレビゲーム• (テレビゲーム)• ムサシの剣-アメリカで刊行されたゲームブック。 人物の描写がアメリカ的になっている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• ただし60余戦すべての詳細な経緯・戦績は記録に残っておらず2戦の簡易な記載に留まる。 新免氏にはを祖とする説(『徳大寺家系図』)、家臣の、の支流の説(『中興系図』)もある。 弁助、弁之助とも。 弘化3年()以前に養子の子孫作成。 実父説と養父説がある。 『東作誌』等で、武蔵の父親を「平田武仁」とする説があるが武蔵の誕生(天正8年(1580年))以前に死んでいる。 また、それらの史料では、他の武蔵関係の記述も他史料との整合性が全く無く、武蔵に関しての史料価値はほとんど否定されている。 如水の息子の長政に従い関ヶ原の本戦場で黒田勢の一員として戦っていたとする説もある。 新免氏が配下であったことから、それに従って西軍に参加したとの説があった。 黒田家臣・執筆の『』(『丹治峯均筆記』『武州伝来記』とも呼ばれる)では、黒田如水の軍に属しての石垣原(今の)で西軍の軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や冨来城攻めでの奮戦振りの物語が語られている。 また巖流は岩流の異字表現で、史料によっては他に岸流・岸柳・岩龍という呼称がある。 従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。 この試合は『海上物語』では明石で、『』では江戸で行われたと伝えられる。 ただし『二天記』の原史料である『』にはこの内容は記載されていない。 伊織は寛永8年()20歳で小笠原家の家老となっている。 当時は近辺、元吉原とも。 新町の置屋にいる遊女・雲井と馴染みで島原の乱の直前に雲居に指物の袋を依頼しこれを受け取り騎馬で出陣したとある。 一般には家老以上の身分でなければ許可されなかった。 の伝記物『宇喜多伝』等を執筆した伝記作家。 染物業者となった吉岡一族は商業的に成功し、現代にもその名を継ぐ染色業者が残る。 直綱が広めたと伝えられるは江戸時代を通じて著名となり「憲法染の掻取」が公家の正装としても扱われるようになった。 宝暦元年()日出藩家老・菅沼政常が記録した平姓杉原氏御系図附言の木下延俊の項にも「剣術は宮本無二斎の流派を伝たまふ」と記載されている。 細川家家老だった沼田延元の記録を編集。 現物は巖流島の決闘の後に紛失した。 二天一流で二刀を使う理由について、武蔵は『』の地の巻で、「太刀を片手で振ることを覚えさせるため」と記している。 実名は渡辺茂。 通称は久三郎。 10年()(現・北中部等)生まれ。 ・をしたと称し、8年()に130歳で死去したという。 武蔵のの弟子・竹村与右衛門との姓を混同したという説と、一時、竹村姓を名乗り、与右衛門はであったという説がある。 沐浴は的行為である。 また、「」項にあるとおり、庶民が風呂に入るようになるのはになってからである。 敵役である荒神()が宮本武蔵を名乗る。 出典 [ ]• 『慶長7年・同9年『黒田藩分限帖』• テレビ映画部・関西テレビ製作 研究書 [ ]• 編、宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂 『宮本武蔵』 金港堂、1909年• 福原浄泉 『宮本武蔵の研究』 武蔵顕彰五輪会、1964年• 冨永賢吾 『史実宮本武蔵』百泉書房 1969年• 丸岡宗男 編 『宮本武蔵名品集成』 講談社、1977年• ・加藤寛 編 『宮本武蔵のすべて』 新人物往来社、1983年• 原田夢果史 『真説宮本武蔵』 葦書房、1984年• 谷口 覓 『新免武蔵藤原玄信 正伝』 私家版、1991年• 谷口 覓 『史料考證勧進・宮本武蔵玄信』 私家版、1995年• 編 『校本五輪書』 私家版、2000年• 福田正秀 『宮本武蔵研究論文集』 歴研、2003年• 魚住孝至 『定本五輪書』 新人物往来社、2005年• 福田正秀 『宮本武蔵研究第2集武州傳来記』 ブイツーソリューション、2005年• 『宮本武蔵が語る「五輪書」』 PHP研究所、2008年• 『剣と禅』四章、動静一致-柳生の転と武蔵の巌の身p. 48 関連項目 [ ] ウィキソースに の原文があります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 『』などの記録から武蔵が生まれた地として最有力の候補地。 - 『東作誌』などの記録から武蔵が生まれた地と称し、観光開発の中心として建設。 - の駅。 『東作誌』などの記録を基に武蔵が生まれた地と称して駅の名称とする。 ・ - 中心部から北東約9キロメートルの郊外にある「武蔵塚」は、武蔵の墓地とされる。 なお、武蔵塚駅はその最寄駅であるほか、武蔵ヶ丘は同駅から北へ形成されている広大な住宅街である。 - 武蔵は、の義母をしばしば訪ねている。 また当地の金倉橋の袂が有馬喜兵衛との決闘地である。 - 武蔵による妖怪退治の伝説が残る。 また、吉川英治の小説でも舞台の一つとなっている。 - 武蔵が親交のあった初代藩主・を訪ねた際に腰掛けたと伝わる石が現存する。 - 武蔵の養子・の甥。 - 宮本小兵衛が在籍したに提出した先祖付。 - の遺伝子。 機能が欠失すると剛毛が二本に増える表現型を武蔵の二刀流にかけている。 外部リンク [ ]• — 遺品、肖像画及び武蔵筆の絵画を所蔵• :熊本市北区の武蔵塚に埋められたのは愛用の太刀だけで、遺骸は同市島崎にある弟子の寺岡信行の一族の墓所に埋葬されたという説がある。

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剣豪「宮本武蔵」が書いた兵法の極意書は?

剣豪 宮本 武蔵 が 書い た 兵法 の 極意 書 は

今回は世界にその名を轟かす剣豪、宮本武蔵の名言9選をご紹介したいと思います。 宮本武蔵といえば佐々木小次郎との巌流島での決闘や、二刀を用いる二天一流兵法の開祖であること、著書である「五輪書」などが有名であると思います。 さらにはドラマやゲーム、人気コミックにも題材として扱われ、日本国内での知名度と人気共に高いですよね。 そんな宮本武蔵なのですが、数多くの名言も残していることをご存知でしたでしょうか。 その言葉はまさに武士らしいものから思わず考えさせられるもの、さらには感動してしまうものまで様々です。 それではさっそく3つのカテゴリー別に宮本武蔵の名言をみていきましょう。 宮本武蔵の武士らしい名言 宮本武蔵/wikipediaより引用 まずは宮本武蔵の武士らしい名言からご紹介したいと思います。 当時は今と違って武士が当たり前にいた時代です。 だからこそ宮本武蔵のような剣豪が誕生したわけですが、そんな武士という世界を生き抜いたからこそ生まれたであろう名言をまずは見ていきましょう。 当時の情景や心情が垣間見えるかもしれません。 何れの道にも、別れを悲しまず。 出会いがあれば必ず別れもあるものです。 別れがあるのはもはや必然のことであり悲しむことではないと宮本武蔵は説いています。 今のようにインターネットもSNSもない時代です。 今以上にきっと人と人の出会いや別れには感傷的になってしまいがちかと思いますが、剣豪の宮本武蔵は達観しています。 人として生まれた以上、確かに別れは避けて通れないものなので、悲しむよりも前向きに考えたほうがいいのかもしれません。 なかなか全ての別れまで武蔵の境地に至るのは難しいかもしれませんが、卒業式や就職などで気持ちが揺れ動いてしまった際はこの言葉を思い出してみるといいかもしれませんよ。 心、常に、道を離れず。 剣の道一筋でその道を極めた宮本武蔵です。 常にこの信条で剣術にも取り組んでいたのでしょう。 どんな道であれその世界のプロフェッショナルになりたいのであれば、心がけていたい名言です。 自分を律して集中したい何かがある時や、自分の美学を貫きたい時なども心でこの言葉を唱えてみるといいでしょう。 武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ。 名言の全文は「武士といえば、常に死ができている者と自惚れているようだが、そんなものは出家、女、百姓とて同様だ。 武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ。 」になります。 当時を生きる人の心構えをうかがい知れる名言です。 現代だと毎日後悔がないように生きている方はいても、なかなか死の覚悟ができている人とは出会えない気がします。 きっと当時は現代よりも平均寿命も短かったですし、死というものが身近にあったのでしょう。 さらに武蔵は死の覚悟なんて当然で武士がなんたるかは兵法の心得があるかどうかだと言います。 それだけ剣術に磨きがかけられているんだという自信が伝わってきます。 宮本武蔵の考えさせられる名言 続いては宮本武蔵の考えさせられる名言のご紹介です。 時代は違っても物事の真理や真髄は変わりません。 宮本武蔵は現代にも通じる、ものの見方や考え方を剣術に打ち込む生活の中から見出しています。 是非、言葉の深い意味を考え今の生活や考え方を見直すヒントにしてみてはいかがでしょうか。 空を道とし、道を空とみる。 ここでいう「道」という言葉は、武士としての道を表しています。 さらに「空」とは心という意味で用いられているようです。 つまりは無欲、無心が事を成すといったことをこの名言は説いています。 これは誘惑や選択肢も多い現代だからこそ当てはまる場面も多くなっているのではないでしょうか。 欲求が強すぎると目の前にある成功や進むべき道も分からなくなってしまいます。 目の前が見えなくなっている人は一度この言葉を思い出して心の中を整理してみるといいでしょう。 神仏を敬い、神仏に頼らず。 武士の世界を生きた武蔵だからこそ思えた境地であろう名言です。 結局、頼れるのは日々日々磨いてきた剣術のある自分自身しかいないという言葉です。 他力にはせず、自分自身を信じて前に進もうと自分に言い聞かせている言葉のようにも感じます。 努力を積み重ねて、いざ本番に挑もうとしている人の背中を押してくれる言葉だと思います。 千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす。 宮本武蔵の記した「五輪書」に書かれた名言です。 「鍛錬」という言葉の語源にもなっているそうです。 「鍛」には千日なので約3年を必要とし、「錬」には万日なので約30年を要するとしています。 つまりは継続的な努力の大切さを説いた言葉になります。 途方も無い年月ですが、物事を極めるには、それだけの長い鍛錬が必要になってくると言えます。 何かを極めたい方は、たとえ躓いたとしても諦めずに是非継続した努力を大切にしてみてください。 宮本武蔵の感動する名言 最後は宮本武蔵の感動する名言のご紹介になります。 宮本武蔵の名言はどれもここに響くものばかりですが、特に心が揺れ動くような言葉を集めてみました。 名言からは当時の武蔵の心境が伝わってくるようで、自分もこんな言葉を思えるような人生を送りたいときっと思えるはずです。 それでは見ていきましょう。 身を捨てても名利は捨てず。 たとえ身を捨てることはあっても、名誉心だけは捨てないという言葉です。 それだけの心構えで当時を生きていたのだなと直に感じることができます。 大きな会社などに属しているとそうはいかないことも多いですが、心の底ではこのような気持ちを忘れずにいたいものです。 一理に達すれば万法に通ず。 なんでも一つの事を突き詰めて理解すれば、それは全ての事に通じるものがあるという言葉です。 それだけ一つのことを極めるというのは困難を極める、それこそ30年もの歳月がかかるかもしれませんが、その先に開ける境地は何もにも代えがたいものなのでしょう。 このような考えに辿り着けるように頑張っていきたいですね。 我事において、後悔せず。 これは常に全力で自分の人生を生きていなければ、なかなか言えない言葉だと思います。 宮本武蔵はいろんなことが起こる人生でも、決して後悔はしないといいます。 時には失敗したり、思い通りにいかないことの方が多いのが人生だと思います。 ですが、常に覚悟を持って生きていれば、どんな事が起ころうが後悔することはないのかもしれません。 今を大切に全力で生きていきましょう。 まとめ:武蔵の言葉から生き方を学ぼう 宮本武蔵/wikipediaより引用 さて今回は宮本武蔵の名言9選をご紹介いたしましたが、いかがでしたでしょうか。 どの言葉も武士という現代人とは異なる生き方をした武蔵の言葉でしたが、今にも通じるものがあるものばかりだったのではないでしょうか。 それは職業は違えど、同じ人として限られた時間を生きていく中でどれも大切な考え方が含まれていたからではないかと思います。 是非、一つでも自分のこれからを生きる信条として宮本武蔵の言葉を参考にしてみてはいかがでしょか。 きっとスッと背筋が伸びるはずですよ。

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