ミイラ に なっ た 古代 エジプト 人 の 総数。 ハーブの歴史 古代エジプト(古代Ⅱ)|ハーブのホームページ

エジプトで古代の棺30個を発見…完全な保存状態のミイラも公開

ミイラ に なっ た 古代 エジプト 人 の 総数

多分、黒人差別の歴史とか、黒人という呼称についての問題とか、色々あるんだと思う。 「この白人至上主義者め!」とか誰かが言い出して、だいたい話題がループするんだが… まあ、まあ、それはおいておこう。 日本だと「エジプト人は何人か?」という話題で炎上することはまずないのだが、大きな勘違いをしている人は結構いらっしゃる。 骨格や遺伝子などから人種的な特徴を推測することが難しかった時代に出版された研究書や、エジプト学が未熟で、古代エジプト人に対して偏見がもたれていた頃に作られた誤ったイメージの遺産が、まだ残っているのではないか、という気がする。 先に結論を述べておこう。 古代エジプト人は、白人でも黒人でもなく、宇宙人でもアトランティス人でもない。 アフリカ人でもアジア人でもないと同時に、その両方の血をひいている。 というか、何千年もかけて色々な人種がごちゃまぜになっているため、「何人?」という質問自体がナンセンスとも言える。 この問題について、まず最初に二つの大きな注意点をあげておく。 壁画の人物像から、外国人の存在を読み取ることは出来ても、その容姿が忠実であるとは限らない。 エジプトの壁画はマンガみたいなものだ。 主人公 王や神 は大きく、敵や異国人は小さく描く。 男は力強く見せるために肌の色を日焼けした色で塗り、女性はやさしく淡い色で塗られる。 ただし例外的に、中王国時代には、女性が黒く塗られたこともあった たとえば壁画の中でエジプト人の肌の色が褐色で、異国人とされる人々の人物の肌が黒いからといって、エジプト人の肌の色がその異国人より薄かったわけではない。 よくある事例として、こんなものを用意してみた。 プント、つまりエジプトの南、アフリカ中央部の国からの貢物を描いた壁画である。 小太りなのはプントの国の女王様。 後ろに続くのは香辛料など珍しいものをたくさん抱えた従者のみなさん。 あれ従者のみなさんの肌の色は黒いじゃない! と、思っちゃいけない。 女王様の肌はエジプト人と同じ色で塗られています。 しかも異国人のはずなのに、服装も、髪型も、エジプト人になっている。 なじみすぎていて、絵の横に添えられた文字を読まないと、この人がプントの女王とは分からないかもしれない。 この図だけを元に、「プントの使者の肌が黒いから、プントは黒人の国だ」とか、「エジプト人の肌の色は薄く塗られているから黒人ではない」という主張をすることは出来ない。 同じような例をもう一つあげてみる。 この新王国時代のヌビアとの戦いを描いた図では、エジプト人の肌の色はヌビア人よりも薄い。 敵であるヌビア人の肌は黒く描かれている。 しかしこれは、ヌビア人の肌の色がエジプト人より濃かったことを意味しない。 何故か。 画面上、カッコよく戦って勝っているエジプト人が目立たないといけないからだ。 そのためにヌビア人は黒く、背景に沈んでいる。 画面構成上の必然なのだ。 これも新王国時代、ナクトという人物の墓に描かれたワインづくりの様子だ。 ぶどう踏みをしている男性の中で、重なっている人物のうち二人だけ肌の色が薄い。 (左の三人のうち真ん中、右の二人のうち奥) 全員同じ色だとくっついて見えてしまうからだろう。 これも画面構成上、見栄え良くするための肌の色の変更である。 エジプトの壁画で、肌の色に写実性は求めないほうがいいという例だ。 一般的に女性や子供の肌の色は男性より薄く塗られるが、新王国時代のネブアメンの墓にある、こちらの絵ではネブアメンの娘の肌の色は父親より黒い。 これも、父親と密接しているから少し色あいを変えて画面を構成しているのだと思う。 ちなみに男性のほうが女性より肌の色を濃く塗られるのは、男らしさや健康さを表す為、または男性は家の外で働くために日焼けしているということを示すものと考えられている。 と、まぁ例はつきないが、古代エジプトの壁画は現実に忠実ではなく、儀式的な細かいルールに従って描かれたものだ。 それだけを根拠にして語っては、説得力がない。 というか、 みんな金太郎飴みたいな同じ顔で描かれてんのに、肌の色だけ忠実なワケないだろ。 (ざっくりツッコミ) 顔の特徴すら出てませんよエジプトの絵だと…。 参考になるのは、ヌビア人やアジア人の当時のファッションについての部分。 みんな同じ顔で描かれる絵の中で、服装は人物の身分や特徴を示すものだけに、ある程度、忠実に描かれている。 明らかに異国の格好をしている人物が公式の記録に登場していれば、その時代に異国人が多く訪れたなどの変化がおきていることが分かる。 古代エジプト人が何人だったのか、どういった人種・民族の血を引いていたのかは、古代エジプト人自身に聞けばいいのである。 王や王妃だけではない。 家臣や召使、役人たち、時には職人ですらミイラになってその体を現在まで残している。 従って物理的なサンプルの数は他の古代文明より多く、遺伝子解析なども行える。 膨大な物的証拠のある古代エジプトについて、紙の上と想像だけで話を進めようというのが、そもそも間違いだろうと思う。 有名なところだとラメセス2世だろうか。 この方のミイラは保存状態がよく、髪の毛も残されていた。 地毛は赤毛である。 ラメセス王がご存命だった19王朝の王家は、アジア系の血を引いていたとされる。 嵐の神バアルと同一視されたセト神の地位が高くなり、他のアジア系の神々も多くエジプト神話に取り入れられた。 神々が取り入れられたということはつまり、それだけまとまった人数の移住者を受け入れていたはずだ。 人の行き来・交流は血の交わりを生み出す。 王がミタンニやその周辺の国々から王女を妻に迎えていたように、、少なくとも、国境に近いナイルデルタのあたりでは当時の古代エジプト人と、アジアからの移住者の混血が行われていただろう。 ただし、まとまった数のミイラが見つかっていないため、その時代に起きた変化について統計的なデータは無いようだ。 かわりに、上エジプトのドゥーシュ村(カルガ・オアシスの南にある)廃墟から得られたローマ統治時代の700体のミイラを統計分析したデータを挙げてみる。 人種としては、『ほっそりとした地中海沿岸人タイプで、中背(男は1. 65m、女は1. 55m)、白い肌。 長頭または中頭で、髪はカールしていることが分かった。 黒人の特徴はほとんどないが、ヌビアに近いことを考えれば当然である。 顔の特徴はナイル流域の住人とほぼ同じと考えて良い。 』 ドゥーシュはナイルから離れた内陸の村で、エジプトの南端に近い場所にあるが、それでもミイラ化などの文化は共通していた。 また、700体に及ぶミイラから、その村の住人は黒人ではなく、白人でもなかったことが分かっている。 もちろん時代ごとに人種的な特徴は異なっていただろうが、少なくとも、古代エジプト人は紀元前の時代だけで何度かの大規模な民族交流を果たし、アジア人とも、ローマ人とも混血している。 またヌビア人王朝がナイル下流に建てられたことも、リリビア人王朝が建ったこともあり、周辺各国との交わりもあった。 彼らのアイデンティティは、ナイルのほとりに住み、お馴染みの神々を崇拝し、自分たちをエジプト人だと思っていたという、文化的な部分ではないだろうか。 というわけで、結論から入って詳細へと移る。 最初にエジプトのあたりに人が住み始めたのは、およそ一万年前、気候が変化しはじめた頃だっただろうと言われている。 機構が乾燥し始めたことによってサハラが形成され、北はリビアや地中海沿岸の各地から、またアフリカ内部からも、生活に必要な水を求めてナイル河周辺に人が集中しはじめる。 これらの遺跡の中から出土した石器や土器を分析することで、一部の人々はエジプトより南、ヌビアから移住してきたんだろうということが分かる。 が、エジプトの北、海に近い側はどうやら文化が違ったようだ。 つまり最初の段階から、エジプトの北に住む人々と南に住む人々ではルーツが異なっていたと考えられる。 エジプト神話に登場する「上の国」 ナイル上流 と「下の国」 ナイル下流)、二つの王権、白冠と赤冠といったモチーフは、もともと北と南で異なる勢力だったものが統一されて一つになったとき古代エジプト王国の歴史が始まった、ということを表している。 二つの王国は、伝説の初代王、のあたりで一つに統合され、古代エジプト王国の時代が始まる。 これは、初期の段階から既に、ニ系統の血が交じり合っていたことも意味しているかもしれない。 また、天文学や、文字エジプトに先んじて文明を築いていたメソポタミアからの移住者が伝えたともされる。 その他にも、ヒエログリフは楔文字の原型である絵文字から着想を得たものであるとか、初期の階段ピラミッドにはメソポタミア周辺で築かれていたジッグラト(上に神殿をのっけるためのピラミッド)の技術が応用されているとかいう説があり、その可能性は大いに考えられる。 ということで、エジプト(というよりナイル沿岸の文明)には、その発祥段階から西方との繋がりが強かった。 もちろん文化だけではなく人も渡ってきただろう。 古代エジプトに、高層建築や最初の天文学をもたらしたのは、メソポタミアからの移住者だったとも言われる。 また、エジプト王国の歴史を通して、南方はヌビアからの移住者が多く流れ込んでいた。 主に兵士や召使として、である。 第四王朝のスネフェル王は、「ヌビア遠征から7000人の捕虜と20万頭の家畜、またエジプト東部砂漠から多数のベドウィンを連れ帰って来た」という。 第四王朝つーと、でっかいピラミッド作ってたあの頃ですな。 さらに新王国時代になると、トトメス3世の時代には6000人、アメンホテプ2世は10万人の奴隷を連れ帰ったともされ、ラムセス2世の時代には神殿に仕える奴隷だけで113,433名が記録されているという。 奴隷としてつれてこられた人々の大半はエジプトに定住する道を選んだようで、エジプトに入ってきた形跡はあっても大規模に脱出したような記録はない。 例外として残っているのが、旧約聖書にある「出エジプト」の話だ。 このように、エジプトの歴史には、エジプトに移住してきた様々な人種、民族を示す記録が多数ある。 たとえばラメセス時代のパピルスが伝えるところによると、「エジプトの軍隊構成 エジプト人1,900人 スーダン(ヌビアより南か)人520人、神官1,600人、軍人100人、ヌビア人880人」…と、いった感じで。 古代にも、存在したことはない。 古代エジプト王国は、最初期からしてアフリカ内陸部と、地中海沿岸やアジアの人種の混血した結果、誕生している。 そして歴史を通して、様々な段階で、多くの移住者を受け入れてきた。 (その反面、「シヌヘの物語」に語られるように、エジプト人は国を離れたがらなかった) 現在のエジプトは、その結果としてアフリカ人でも、アジア人でもなく、白人でも黒人でもない、いわば「地中海人」とでも言うべき状態にある。 「ナイルの側に住んで、ナイルの水を飲んでいればエジプト人」。 だからまぁ、人種的な意味でのエジプト人、遺伝学的なエジプト人なんてものの存在を規定しようとすること自体が、無駄な努力というか、意味ねーんだ。 と言いたい。 米国を巡回中の「ツタンカーメンとファラオの黄金時代(Tutankhamun and the Golden Age of the Pharaohs)」展に展示された王の肖像をめぐり、こんな論議が巻き起こっている。 エジプト考古最高評議会のザヒ・ハワス(Zahi Hawass)事務局長は25日、ツタンカーメン王は黒人ではなかったとの自説を主張した。 発端は、米国の黒人運動家がツタンカーメンの褐色の肌の色を指摘したこと。 ハワス氏は米フィラデルフィア(Philadelphia)で9月6日に行った講演で自説を展開したが、これに対して黒人運動家らが反発した。 ハワス氏は25日、反論に応える形で記者団に「ツタンカーメンは黒人ではなかった。 アフリカの古代エジプト文明人を黒人と形容することには一片の真実もない」と強調。 半国営の中東通信(MENA)も「エジプトはアフリカ大陸にあるが、エジプト人はアラブ人でもアフリカ人でもない」とする同氏の発言を伝えた。 このページの「結論」を読んでもらえれば分かるとおり、私の考えもハワス博士と同じで、エジプト人は黒人でもアラブ人でもないし、もちろん白人でもない。 と思っている。 ツタンカーメンが黒人かって? 見れば分かるじゃないか… ミイラを…。 だが、黒人差別や白人主義、文明の頂点はローマだとするような前提としての偏見が根強く存在する国際社会では、そうした発言すらも火種になってしまうらしい。 しかもひどいことに、この記事を読むと、黒人運動家たちは「ツタンカーメンを白人として作った胸像の展示を取りやめるよう要求」した、というのだ。 その白人姿の胸像とは、これだ。 これアラバスター製じゃん。 白い石で作った彫像が白いのは、当たり前だろ(笑) つーか白人てのは髪の毛も服も白い人種なのかよ。 アラバスターって古代エジプトの出土品ではかなりメジャーなんですが。 こんなんで腹をたてる黒人運動家も間違っているだろう。 せめて、古代エジプトで工芸品に使われたアラバスターという石は白っぽい色をしているのがデフォルトなんだくらいは調べようよ、と。 まあ、そんなわけで、海外の掲示板で古代エジプト人の人種問題をふると炎上する理由が何となくお察しいただけましたら幸い。 ナイーヴな国はほんとにナイーヴなので、自分なりの根拠や信念を持たずに、ここらへんの発言をするのは差し控えたほうがいい。 日本語のサイトなら、翻訳してまであえて海外か閲覧する人は少ないと思いますが…。

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「ミイラのDNA解析」から明らかになったエジプト人の遺伝的起源

ミイラ に なっ た 古代 エジプト 人 の 総数

「端的に言ってしまえば、当時のエジプトの人々のポピュラ-な埋葬の慣習だったからでしょう。 」 現代の日本では、人が亡くなると火葬して遺骨を拾ってお墓に納骨しますが、誰もそうする理由など考えてしているわけではないですよね。 1000年後の日本人からみたら何故そういう埋葬方法をしていたのか不思議に思うのかもしれません。 それと同じことです。 学者さんたちの推測や残っている断片的な記録から、太陽信仰がその起源だろうとされています。 太陽は昇っては沈みますが、また明日の朝必ず昇ります。 そのことから、古代エジプト人は、人の生命は尽きるけれど、その人の魂はあの世とこの世を行き来すると太陽の動きになぞらえて考えていたとしています。 この世に魂が戻ってきたとき身体が必要だからミイラにして保存しておく必要があると考えたらしいです。 なにせ神官が崇められ支配的な立場にあった時代の人の考えることですから、現代の感覚では不思議に思えても仕方ないと思います。 わかったかニャ-? 自分は死んだらすべて終わり、その先は何もないという考えに、過去の多くの人々は同意できなかったようで、世界各地で(その風土に応じて)死後も「生」があると考えられてきました。 伝染病が起こりやすく、死ぬと腐敗する前に遺体を火葬してしまったほうがよい暑い気候のインドでは、一方で生命も多く生まれやすく、そこでは死後に輪廻「転生」(生前のアイデンティティを保っていない)があると考えられました(その流れをくんだチベット仏教の土地では、残念ながら遺体を焼く薪にこと欠き、遺骨を流すガンジス川のような大きな川もなかったので、遺体を野原に安置して鳥に食べさせるという風習ができました)。 キリスト教圏では、死後に復活「再生」(生前のアイデンティティを保っている)があると教えられました(だからアメリカなどでは、復活再生に備え、遺体を火葬によって変形・破壊するのではなく、さらにエンバーミングまで施し生前同様にして土葬にするということが盛んになりました)。 中国は儒教の影響もあり、現世は楽しいものと考えられましたから、死後の生など考えず、現世の時間をなるべく(できれば無限に)引き伸ばすことに意識が集中し、それで道教では不老「不死」が追及されました(仙人の観念や漢方薬、太極拳などは、道教の影響を受けています)。 エジプトは地中海性気候でとにかく乾燥しており、そのため遺体の腐敗が比較的起こりにくく、ミイラのように適切な防腐処置を施せば遺体はいつまでも腐らず、そこでは死後も「永生」があると信じられました。 もっとも、死後にそうした処置を受けて自分の「永生」を信じることができたのは、金のある高貴な身分の人間に限られていたでしょうが。

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エジプトのミイラ【みんなの声・レビュー】

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エジプトのミイラ(所蔵) 古くは神秘的な力があると考えられることが多く、人工的なミイラ形成は、死者を後世まで残すなどの目的でから行われた。 数百年、数千年を経て、いまだ生前の面影を漂わせるミイラもある。 などの条件から死体の水分含有量が少ない場合にはミイラ化しやすい。 自然発生ミイラがのの中からみつかることが多いが、これは急速な乾燥をもたらす自然条件のほかに、そこにできる死体が脱水症状を起こして餓死するなどで死亡したものであるため、死亡時の水分量がもとより少ないという条件が整っているからと考えられる。 自然条件においては、成人一人がミイラ化するのに必要な期間は3か月と言われている。 こういった自然のミイラは全身が完全なミイラとなっている例は少なく、身体の一部分のみがミイラ化して残っている場合が多い。 自然環境において全身ミイラが少ない理由の一つとして、死体の中で最初に腐敗が進行するのがであることが挙げられる。 自然状態においては内臓が体外に出ることがないため、人体の完全なミイラ化は起きにくい。 ただし内臓が液化して体外に流出したり、野生動物に喰われたりしたあとに急速に乾燥するとミイラが形成されることがある。 そのため、人為的にミイラを作る場合には、を含めた内臓を摘出し、外部で火気などを用いて乾燥させ、あるいは薬品によって防腐処理をほどこした。 その内臓は体内に戻すか、副葬品の壷の中などに納めるなどの手段が取られた。 語源 [ ] 日本語の「 ミイラ」は16〜17世紀にポルトガル人から採り入れた言葉の一つで、: mirra は元来「」を意味するものであった。 また、漢字表記の「 木乃伊」は14世紀の『』巻3に回回人の言葉として出現し、中国語では「蜜人」というとしているが、おそらくは同じ語にもとづく。 『輟耕録』ではミイラを回回人の習俗として記し、手足をけがした人がミイラを食べるとたちどころに直ると記述している。 『』でも『輟耕録』を引用しているが、本当に効果があるかどうかはわからないとしている。 日本でもこの表記を中国語から借用し、「ミイラ」の語に充てるようになった。 16〜17世紀のヨーロッパにおいて、ミイラは一般的な薬として広く使用されていた。 そのため、ミイラを取ることを生業とする者が増えた。 なお、ミイラを取るためにはの中に入ったり、砂漠を越えたりする必要があることから危険がつきまとい、ミイラを探す人間が行き倒れることもあった。 彼らの死体がどれほどの確率で自然乾燥によりミイラ化したかは不明であるものの、このことを指して「 ミイラ取りがミイラになる」という言葉が生まれたなどとする説がある。 数多くの盗掘が行われ、近現代の研究を阻害する要因となったのは事実であるが、実際には本物のミイラを取りに行くよりも捏造品を売りさばくほうが楽であり、墓暴きの存在を諺の成立由来として扱うには信憑性が低い。 なお、薬としてのミイラはにも輸入されており 、江戸時代には大名の間で人気だったという。 ミイラの事例 [ ] 古代エジプト [ ] では、紀元前3500-3200年の()には人工的な遺体の保存が始まっていた。 ミイラ作りは来世・復活信仰と密接に結びついている。 遺体の保存が来世の一番の保証とされた。 エジプト神話で豊穣をあらわす神であるはセトに殺害され、のちに妻のイシスや冥界の神アヌビスの助けによってミイラとして蘇り、冥界の王となったという伝説がある。 このため葬儀やミイラ製作は、オシリスの神話にもとづいて行われた。 内臓を摘出したあとの死体を70昼夜にわたって天然()に浸し、それから取り出したあと、布で幾重にも巻いて完成させる方法でミイラが作成された。 包帯を巻いたミイラのイメージは、この古代エジプトのミイラ作成に由来する。 理性の場であると信じられていたを除いたとの臓器や組織は下腹部の切開によってすべて取り出され、脳の組織はから挿入した鉤状の器具によってかき出された。 取り出された他の臓器は「」と呼ばれる壷に入れられて保管された。 古王国時代は遺体を石膏で覆って彫像のようにする処置があり、第1中間期にはミイラマスク、中王国時代の第12王朝には人形棺が用いられるようになった。 犬、猫、ワニ、ヒヒ、トキなど、神の化身とされた動物のミイラも作成され、特に末期王朝時代以降に盛んになった。 後世になると松ヤニが染み込んだミイラは木の不足から工場やの燃料として使われ、一般家庭でも包帯を燃やして調理の火に使われた。 特に貴族のミイラは松ヤニが多く使われていたため重宝された。 肥料、薬、絵の具 としても使われた。 の考古学においては、エジプトから輸入されたミイラのが、研究目的だけではなくとして、の各地で行われた。 これらの興行的な解剖においては、記録などは通常行われず、このために貴重な資料が多数失われた。 当時のヨーロッパでは、外科的施術自体が見世物として行われており、特にに対する解剖ショーは人気を博していたという。 ヨーロッパ [ ] 詳細は「」を参照 アンデス [ ] 死者をミイラとする風習は南米アンデス地方でも見られる。 のミイラの特徴は膝を折り腹部に付けた姿勢()を取ることである。 製法は以下の通り。 死者の内臓と筋肉を取り除く。 次に、何らかの火力で乾燥させる。 最後に特定の姿勢に固定し、体全体を布で覆い、かごに収め、最後に副葬品と併せて再度布を巻くというものである。 紀元前200年ごろまで続いた ()は、形成期においてすでにミイラの製作に習熟していた。 が成立すると、特に高位の人物のミイラに対しては羽や装飾品、金属製の仮面を取り付けるようになる。 作成したミイラはに安置したり、に置いて、あたかもミイラが生きているかのように話しかけ、食事を供し、亡くなった近親者への愛情と尊崇の念を示し続ける。 中国 [ ] 古い文献(『』『』『』など)に入定ミイラの記述があり、『』では晋の元康8年(298年)に訶羅竭という僧が死に火葬に付されたが半焼けになってしまい、座したままでも崩れなかったため石室に安置して礼拝したと記されている。 『大唐西域記』ではが西域の僧のミイラについて言及している。 現存するミイラとしては韶州市南華寺にある代中期の禅僧の肉身仏()などがある。 なお、中国では現在でも即身仏としてミイラが作られている。 ただし、生きたまま苦行の果てに自死してミイラになるのではなく、自然死後に遺言によってミイラとして作られるものであり、全身に金箔を塗ることにより生前に近い形を保とうとしている。 中央アジア [ ] 現在は一部が中国・ロシアの範疇に入る広いでも、ミイラが発見されている。 「」として知られる古代のオアシス都市のミイラは、ブームで一躍知られるようになった。 西域は乾燥(砂漠)地帯で、ミイラができ上がるのに好条件であり、そのため中国におけるミイラは西域に多い。 の(1910年 - 1914年)で地区からミイラを持ち帰っており、当時日本が中ののに所蔵されて、現在でもそこで公開されている。 に属するで「」(別名:「シベリアの氷の女性」)が1993年に発見されて、現在はの博物館で公開されている。 にも高僧のミイラの習俗があり、などが有名。 但し、イチゲロフのように生き埋めでミイラになる例は稀であり、中国と同じく大多数は自然死後にミイラ化させたものである。 日本 [ ] の一部()では、が土中の穴などに入って状態のまま絶命し、ミイラ化した物を「 」(そくしんぶつ)と呼ぶ。 仏教の修行の中でも最も過酷なものとして知られる。 本来はを開くことだが、死を死ではなく永遠の生命の獲得とする考えである。 入定した者は肉体も永遠性を得るとされた。 詳細は「」を参照 奥州藤原氏のミイラ一覧 代 氏名 安置場所 没年 享年 備考 初代 清衡壇 3年 () 73歳 没年齢に関しては歯の状態から70歳以上と見られ、史料の没年齢と矛盾はないとされる。 また、死没日には大治3年7月16日(1128年8月13日)という説もある。 身長159cm、血液型はAB。 副葬品は紫絹の枕、銀・琥珀の数珠 太刀・小刀・金塊。 広範囲に渡ってが進んでおり、保存状態は他の3人と比べて最も悪い。 二代 中尊寺金色堂 基衡壇 2年? ) 50歳-60歳 没年齢に関しては50歳代で死亡、54歳-55歳、55歳-60歳、60歳前後という見方もある。 身長167cm、血液型はA。 副葬品は白絹の枕 稗入り 、水晶の数珠・刀。 三代 中尊寺金色堂 秀衡壇 3年 () 60歳-70歳 没年齢に関しては70歳前後という見方もある 身長164cm、血液型はAB。 副葬品は木の枕、泰衡の首の桶。 保存状態は他の3人と比べて最も良い。 四代 中尊寺金色堂 秀衡壇・首桶内 5年 () 20歳-30歳 頭部のみ。 没年齢に関しては歯の状態から、20歳代-30歳代、23歳-30歳、もしくは25歳と判断されている。 身長は不詳。 血液型はB。 顔に九箇所の刀傷 額に晒し首の釘跡。 社会主義諸国の指導者 [ ] では、過去の指導者を神格化する目的でその遺体をミイラ化()し、民衆に公開することがある。 ()、、、 ()、()、()など。 この場合強力な防腐処置によって腐敗を止めていると考えられている。 その他、生前の本人の希望によりミイラにされる遺体も存在する。 その他の国や地域 [ ] ニューギニアや西・中央アフリカ、アメリカ北西海岸、カナダ西海岸の部族は、死後の遺体を乾燥させ、または燻製にしてミイラにし、墓の上や家中に安置する風習を持っていた。 ニューギニア、アフリカにおいては、現在も続けている部族がある。 また、()にはがある。 防空壕で発見された女性のミイラ - 終盤のからにかけて(および)によって行われたでは、防空壕に避難した一般市民が一酸化炭素中毒などで死亡し、そのままミイラ化した状態で発見された。 架空生物・怪物のミイラ [ ] 江戸時代の見世物 にへの興味が高まったためとなどをつなぎあわせとしたり、ニホンザル、などを加工したのミイラ、・のミイラなどが盛んに作られた。 やのころには外国へ輸出されたり外国人の土産物にもなっていた。 には日本製の人魚のミイラが所蔵されている。 驚異博物館 かつて西洋諸国では宗教理論上世界のどこかに人魚が実在しているものだと信じられていた。 世界に渡った宣教師などが盛んに探し、日本などで生産されていたフェイクの人魚のミイラを持ち帰った。 人魚の他、日本で生産され主に欧州へと持ち込まれたフェイクの怪物のミイラは、、龍、、鬼などがあり、西洋で制作された、、三本脚のガマのフェイク・ミイラなどと共に、好事家に蒐集されたり、で展示されていた。 ミイラをテーマにした文化 [ ] 映画・小説・漫画・落語 [ ] ミイラは長期間死体が保存され不気味であると認識され、また1920年代にのミイラが発掘された後にら数名が謎の死を遂げたことが「」によるものとされ、人を殺すというイメージもあり、や書物にしばしば生き返って登場する。 映画ではのが製作した、モンスター役で知られる怪奇スター、主演の『』(1932年、原題: The Mummy)が始祖とされ、多くの後継作やリメイクが製作された。 『』(1981年)のように、同じく蘇った死者であると共演する作品も登場した。 日本でも1961年に製作の連続テレビ映画『』が放送された。 すでに死体であることから、通常人間が死に至るセオリー(を突き刺す・首をはねるなど)をおこなっても死なず(というよりももとから死んでいるのだから 動きを止めず)、そういった物語の登場人物たち、および読者・観客を恐怖させた。 なお、それらの場合ではやに弱いなどの特徴が見られる。 なお、『』(1999年)の原題は(リメイク元の『ミイラ再生』同様)" The Mummy"すなわち『ミイラ』であるが、現代日本の文化状況下において安直すぎると考えたことからか、日本公開時に直訳でない邦題が付けられた。 等の映像媒体において現在ではミイラは(の怪物)と対でを巻かれた状態でコミカルに登場することが多い(例:のCMなど)。 また、日本のコメディ作品『』では包帯の中身への興味を逆手に取り、ミイラ君の包帯が解けそうになり若干地肌が見えるという描写があった。 日本の・作品でも、恐怖度や攻撃力の高い敵役としてしばしば登場する。 ミイラ人間(初代)、ミイラーマン()、ミイラルゲ()、合成獣ミイラス()などである。 また、において系モンスターとして登場することも多い。 日本の漫画では『ミイラ先生』が有名である。 江戸時代の弾圧で殺されたのミイラが漏水を浴びて蘇る。 水を飲むと一時的に生きた人間と変わらぬ見掛けになれるため、顔がよく似たと入れ替わり、本格的に美しさを取り戻すため女生徒の生き血を吸おうとする。 にも「」という演目が存在し、や、 などが得意演目としていた。 内容としては上述の「ミイラ取りがミイラになる」をモチーフとしたものである。 脚注 [ ]• (スペイン語)• タンパク質が水分を失うことにより不可逆的変質をしているので、水分を戻すことにより生命活動を復活させることは、現代の科学では不可能である• 水分が蒸発してが活動出来なくなる前に腐敗菌による有機物の分解が進むため、特に内臓や脳の腐敗が顕著である。 ・木乃伊• 広辞苑は「 mummy の漢訳」とする。 李時珍. ,、1834• 粟屋剛、「徳山大学研究叢書 19」 2010年1月23日, at the. 和田, 浩一郎 日本語. 古代エジプトの埋葬習慣. 日本: ポプラ社• トールワルドの著書『外科の夜明け』() による• 『万国怪物大博覧会』南方堂、1993年。 文献 [ ].

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