きけ わだつみ の こえ 映画。 映画の國

<懐かしの立命館>立命館大学の長い1日 その日「わだつみ像」は破壊された

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この節のが望まれています。 1995年、真夏の場で仲間たちとスクラムを組んでいた鶴谷勇介は、ボールを追って相手にタックルした瞬間に意識を失い、初めて見る3人の若者に囲まれていた。 若者達に手を引かれて起き上がった次の瞬間には雨に煙るでずぶ濡れになって行進する学生の集団の中にいることに気がついた。 鶴谷が周囲の学生にどうなっているのか尋ねると、隣にいた男は「戦争に行くんだ」と答える。 その男たち、勝村寛、相原守、芥川雄三はそれぞれ明大、早稲田、東大のラガーメンだった。 彼は1943年10月21日に挙行されたの大壮行会の真っ只中に身を置いていたのだった。 出演 [ ]• 勝村寛(少尉):• 相原守(一等兵):• 大野木(上等兵):• 芥川雄三(少尉):……陸軍大尉がモデル。 鶴谷勇介:• 津坂映子:• 原口(軍医・中尉):• 橋本(婦長):• 近藤(中尉):• 大橋(軍曹):• 高倉(一等兵):• 野々村(一等兵):• 谷川(上等兵):• 馬越(上等兵):• 坂見(中隊長):• 安原クニ子:• 鶴谷総治:• 鶴谷タマエ:• 隊長:• 司令官(中尉):• 藤村保江:• 野川貴美江:• 教官:• 陸軍将校:• 各務憲兵大尉:• 村井秋子:• 芥川弥生:• 野川三千代:• 栗田(少尉):• 高見沢(教授):• 相原巌:• 相原の母:• 芥川克代:• 大島(教授):• 小野寺(指令):• スタッフ [ ]• 監督:• 脚本:• 音楽:• 企画:• 軍事指導:• 製作者:、• プロデューサー:、、• 撮影:• 照明:• 美術:北川弘• 編集:• 録音:• 監督補佐:• 助監督: イメージソング [ ]• 「Endless World」• 「愛の行方」 備考 [ ] 作中では登場人物の台詞により「中国と戦争」(の建国は1949年)という設定になっている。 製作者側の時代考証ミスか言い換えかは不明。 ただし、その台詞は現代からタイムスリップした鶴谷勇介の台詞である。 また1912年に建国されたの略称も「中国」である。 脚注 [ ]• - (英語) この項目は、に関連した です。

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なぜ『きけわだつみのこえ』を読んだ特攻遺族は異議を唱えたのか

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「わだつみ像」は、立命館学園の教学理念「平和と民主主義」の象徴です。 1953 年 12 月 8 日に広小路キャンパスに建立された後、 1969 年 5 月 20 日大学紛争の最中に破壊され、 1970 年 12 月 8 日再建・ 1976 年 5 月 20 日再建立を経て現在は立命館大学国際平和ミュージアムに設置され、今も立命館学園の教学理念を伝えています。 本項は、 「わだつみ像」とは何か? どのようにして「立命館大学」に建立されたのか? そしてどのようにして破壊されたのか? を史資料センター所蔵の資料、当時の証言を元に改めて再構成したものです。 「わだつみ像」誕生 1947 年 12 月、『はるかなる山河にー東大戦没学生の手記』が刊行されました。 この本は東大学生自治会に設けられた東大戦没学生手記編集委員会が編集し、東大協同組合出版部から刊行されましたが、対象が一校(東京大学)の戦没学生に限られたという大きな欠点もっていました。 その後 1948 年春、東大協同組合出版部の中に『日本戦没学生手記編集委員会』がつくられ全国の大学、専門学校出身の戦没学生の遺稿を募り、『きけわだつみのこえ』(日本戦没学生記念会編)として 1949 年 10 月刊行されました。 なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ (「きけわだつみのこえ」に寄稿した藤谷多喜雄氏の詩) この『きけわだつみのこえ』は、 30 万部のベストセラーとなりました。 本書の著作者である「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」( 1950 年 4 月 22 日結成)(以下、「わだつみ会」)は、その印税を資金に、さらに本の意義を発展させて反戦を訴える社会事業を興すことにしました。 主な事業は次の様なことでした。 この戦没学生記念像「わだつみのこえ」の創作が、後の「わだつみ像」となるのです。 「わだつみ会」発起人の一人である中村克郎氏メモ「わだつみ像縁起」 (注 1 ) によれば、 1950 年 1 月 寒い日、中村克郎氏とO氏と二人で世田谷の彫刻家本郷新氏宅を訪問し、戦没学生記念像の制作を依頼した。 3月にエスキース (注 2 ) ができあがり、 4 月 22 日(土)、「わだつみ会」の席上で本郷新氏自らが製作意図を説明されたと書かれています。 9 月 20 日に像は完成し、 11 月 30 日に「わだつみ会」理事長より「平和記念像の寄付と共に(東京大学)図書館前に建立し、 12 月 8 日に除幕式並びに慰霊祭を挙行したい」と東京大学に申し入れおこないました。 この申し入れに対する当時の東京大学総長の内諾に基づいて、建立と慰霊祭の準備は進められていました。 しかし直前の 12 月 4 日になって、東京大学の最高決議機関である評議会は「学術上及び教育上本学(東京大学)に対し顕著なる功労のあった者で、本学関係者によって企てられたものに限る従来の取り扱いによって、この申し込みを遠慮したい」と「わだつみ会」の申し入れを断ることを可決したのです。 事実上の建立拒否でした。 (注 3 ) 「わだつみ像」立命館大学に建立・「不戦の集い」の始まり 像は 1951 ~ 52 年の 2 年間、本郷新氏のアトリエに眠りつづけました。 1951 年、立命館では末川博総長を先頭に立命館挙げて戦没学生記念像(わだつみ像)(以下、「わだつみ像」) (注 4 ) 誘致の取り組みが開始されました。 誘致は決定し、本郷新氏のアトリエに眠り続けていた像は、 1953 年 11 月 8 日に立命館大学に届きます。 この時、わだつみ像歓迎大会に参加しようとした学生約 120 名が、荒神橋上で警察官に力ずくで阻止され、欄干から 10 数名の学生が転落して重軽傷を負うという事件がおきました。 いわゆる「荒神橋事件」です。 その事件を知った学生達は直ちに京都市警本部にむけて抗議行動を起こしました。 ところが市警前で抗議行動をしている学生にむかって、突如武装した警察官が襲いかかり、約 70 名の学生が負傷します。 この事件は「京都市警前事件」 (注 5 ) と呼ばれています。 (『立命館百年史 通史二』(以下、『通史二』) p954 ) こうした苦難の道を辿りながらも、反戦平和を願う青年・学生、市民に支持され、わだつみ像は広小路キャンパスの校庭に建立され、 1953 年 12 月 8 日に除幕式が挙行されました。 その時、学生の代表によって「不戦の誓い」が宣言されました。 1953 年 12 月 8 日「わだつみ像」除幕式 不戦の誓い わだつみ像よ かつて私たちの先輩は、 愛する人々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは大陸の荒野に空しい屍をさらしました。 その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。 再び銃をとらず、再び戦いの庭に立たぬことを。 わだつみ像よ かつて私たちの先輩は、 何の憎しみももたぬ他国の青年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い血を流しました。 その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。 再び他国の青年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。 わだつみ像よ かつて私たちの先輩は、 魂のふるさとである学園で考える自由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校門から戦場へ送り出されました。 その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。 学問の自由と学園の民主々義の旗を最後まで高く高く掲げることを。 一九五三年十二月八日 (『通史二』 pp. 955-956 ) 翌年の 1954 年 12 月 8 日、建立一周年を記念してこの像前で第 1 回「不戦の集い」が開催されました。 以来、このわだつみ像前での「不戦の集い」は、 2016 年で 63 回目をむかえ、半世紀を越えてもなおその伝統は生き続けています。 2016 年度 第 63 回「不戦の集い」での吉田美喜夫総長 立命館大学の長い 1 日 1969 (昭和 44 )年 5 月 20 日(火)「わだつみ像」は破壊された この「わだつみ像」は 47 年前の 1969 (昭和 44 )年、「大学紛争」の最中に全学共闘会議(以下、「全共闘」)の一部学生によって破壊されています。 史資料センター資料整理の中に、「わだつみ像」が破壊された当時の様子を描いた学生の漫画(ビラ) 1 枚が発見されました。 そのビラを主材料として当時の目撃証言とともに顛末を追ってみました。 5 月 16 日(金) 立命館大学は「創立記念日に向けて 教職員・学生への大学の訴え」((学内)理事会)(以 下、「訴え」)をだします。 その「訴え」は、「全共闘」の学生諸君が 5 月 19 日の創立記念日を立命館の「解体記念日」にせよとよびかけ、本部(中川会館)を奪還し、封鎖を拡大しようとする動きをみせている。 全学の教職員・学生が当面している事態を正しく認識し全力を結集されるよう期待する、というものでした。 5 月 18 日(日)~ 5 月 20 日(火) 5 月 16 日の「訴え」に応えて大学の教職員及び教職員組合の組合員、生協労働組合の組合員、 1 ・2部学友会学生たちが 5 月 18 日から大学内に泊まり込みました。 学生は「延べ 3000 名」もの学生が泊まり込んで警戒にあたっていました。 5 月 19 日(月) 立命館創立記念日 この日は創立記念日のため全学休講でした。 「全共闘」はこの日を立命館大学「解体記念日」とするとしてバリケード封鎖を宣言していましたが、行動はありませんでした。 5 月 20 日(火)そして長い 1 日が始まる 深夜 0 時頃 M教授宅に警察から電話がかかります。 「(何がおこるかわからないので)今晩の居所をはっきりして欲しい」との内容でした。 M教授は不安な予感がしたので、電話直後、大学内で待機することにして自宅を出ました。 5 時 40 分頃 警察 (注 6 ) より電話があり、至急に会いたいので御所(清和院門)まで来て欲しい、との内容でした。 M教授、I講師が指示された場所に行くと、出迎えた警察官は詳しいことは警察でお話しますと言って車に乗せ警察に連れて行きます。 警察署長室に着くと捜査令状を見せられ、すでに恒心館に対する強制捜査の準備を整えており、その開始は 6 時 40 分の予定であると告げられます。 「恒心館を捜査したい。 罪名は、放火未遂、暴行、監禁、傷害の容疑です。 」「場所は恒心館及びその敷地内です。 広小路キャンパスは含みません。 」 (注 7 ) M教授、I講師が捜査令状の説明を聞き終わった時はすでに 6 時 30 分になっていました。 すぐにM教授は、大学に電話連絡し警察の執行に立ち会う人の人選を頼み、急ぎ大学に戻りました。 その時には 7 時少し前で、すでに警察機動隊が恒心館突入の態勢を整えていました。 6 時 40 分 2 月 26 日以来「全共闘」学生によって封鎖されていた恒心館の強制捜査( 6 時 40 分~ 9 時 45 分)が行なわれました。 細野武男元立命館総長(当時、産業社会学部長)等の立会いの下、火炎瓶 171 本、トラック 1 台分の石、鉄パイプ 244 本、灯油、石炭かます 19 袋が押収され「全共闘」の学生約 200 名は恒心館裏庭に集められ身体検査の後、解放されました。 8 時 00 分~ 12 時 00 分 強制捜査で恒心館から機動隊に排除された「全共闘」学生は、支援の他の学生を含め約 2 百数十名の集団となって広小路キャンパスに侵入、正門・西門をバリケード封鎖した上で清心館、存心館、尽心館、生協食堂等校舎を破壊しました。 (『通史二』 p942 ) 「わだつみ像」もこの時に破壊されています。 わだつみ像破壊は、 11 時過ぎではなく 8 時 30 分~ 9 時 00 分の間 わだつみ像の破壊行為がおこなわれた時間について、『通史二』( p942 )によれば「午前 11 時過ぎ、全共闘の中の学生がわだつみ像にロープをかけ、これを引き倒し破壊」したとしています。 しかしながら、その当時学生が配布したビラおよび当時研心館に泊まりこんでいて一部始終を目撃したI氏の証言等から破壊行為は 8 時 30 分~ 9 時 00 分であったようです。 (注 8 ) 恒心館から排除されたほとんどの「全共闘」の学生は広小路キャンパス存心館前で集会をはじめた。 この集団の中から黒いヘルメットを被った 4 、 5 名のグループ(以下、「黒ヘルG」)が集会に参加せず直接に「わだつみ像」前まで行き、「わだつみ像」にロープをかけ、これを引き倒し破壊しました。 I氏の証言によれば、 「黒ヘルG」の一人が「わだつみ像」の台座に上がり、「わだつみ像」の首にロープをかけ台座から降りた。 台座からおりた一人は他の「黒ヘルG」の仲間 3 ~ 4 名といっしょにロープを右方向(広小路キャンパス南東方向)に引っ張りわだつみ像を倒した。 わだつみ像は顔面を下にうつ伏せに倒され、その時に左腕も破損した。 うつ伏せに引き倒された「わだつみ像」を「黒ヘルG」がひっくり返して仰向けにし、鉄パイプで頭部を破壊して身体部分をめった打ちにした。 その後、「わだつみ像」の胸に赤いペンキで「死」と落書きをしたとのこと。 さらにI氏は、 「黒ヘルG」は当初から計画していたかのようにロープとペンキを持ち出してきて (注 9 ) わだつみ像を引き倒し破壊している。 この「黒ヘルG」の行動は存心館前で集会に参加していた他の「全共闘」学生達は知らなかったのではないか。 研心館前に来て初めて事態を知ったようだったとも語っています。 11 時頃 大学声明発表「五月二十日の強制捜査について」(立命館大学 1969 年 5 月 20 日) この声明は、 5 月 20 日早朝の恒心館の強制捜査について、大学の要請によるものではないこと、京都府警察当局に対して強い抗議の意志を表明すること、事態を招来した「全共闘」学生の破壊的暴力行為に対して深刻な反省を要求するものでした。 12 時 00 分直前 警察より「府警機動隊を広小路キャンパス西門(寺町通りに面している)より入れる」との電話が入り、直後機動隊が侵入してきます。 大学は一方的な通告と侵入にたいして抗議しています。 侵入した機動隊は「全共闘」学生を広小路キャンパスから追い出した後、学外に退去しました。 12 時 20 分 「全共闘」学生は再び学外から広小路キャンパスに戻り、いっそう激しい破壊行動をおこないました。 14 時頃(時間不明・前後関係からおおよその時刻) 大学声明発表「府警機動隊の学内進入について」 この声明では、広小路キャンパス内にいる「全共闘」学生に対し、破壊行為をやめ学外に退去するよう強く要求し、同時に、大学の事前了解なしに警察の一方的に判断によって学内侵入したことは、事態を一層混乱させ大学の自主的解決の努力を水泡に帰する行為として抗議の意を表明しています。 14 時 45 分頃 1 ・ 2 部学友会学生は「学園破壊をこれ以上許すわけにはゆかない。 」「われわれは直ちに館外(泊り込んでいた研心館)にでて暴力学生を実力で排除する。 キャンパスをとりまく学友、一部キャンパス内にいる学友も共に協力を」してほしい(『通史二』p 942 )と訴え、「黄色いヘルメット」 (注 10 ) を着用し、一団となって暴力学生を学外に追い出しました。 15 時 00 分「全共闘」による封鎖・占拠が解除 封鎖解除された広小路キャンパスは先に破壊されていた中川会館や恒心館、衣笠キャンパス 4 号館同様すさまじい破壊が行なわれていました。 事態を知って登校してきた学生たちは「破壊され、腕をもぎ取られ、頭に大きな穴をあけられたうえ、その胸には赤いペンキで「死」と落書きされ」(『通史二』 p943 )、キャンパスに横たわる「わだつみ像」を目の当たりにするのです。 その衝撃は大きく「全共闘」に対する幻想を捨て去る出来事になりました。 20 時 00 分 武藤守一総長事務取扱 (注 11 ) は、広小路キャンパスの有心館で記者会見を行いました。 その内容は、朝、恒心館を京都府警が捜査したのは、警察は独自の判断で学内に入れるという文部次官通達を早速実施したものと思える。 授業は 5 月 21 日(翌日)からすぐに始めたい。 開講に当たっては 20 日(今日)の事態について全学に説明する、というものでした。 また、「わだつみ像」の破壊に関わって「許しがたい暴挙と厳しく批判し、像は直ちに修復もしくは再建にとりかかる」と言明しています。 (『通史二』 p957 ) 立命館大学の長い 1 日は終わった こうして立命館大学の長い 1 日は終わりました。 後年、武藤守一元総長は『回想録』の中でわだつみ像が破壊された怒りと反戦平和運動が続く限り、わだつみの再建は実現されないわけがない、とその怒りと展望を日記に記しています。 わだつみ像は出陣学徒のなげきといかりともだせ(黙だせ=黙って見過ごす)を再び繰り返すなという悲願を本郷新氏が芸術的に表現したものではないか。 わだつみ像を虚像にすることは真の反戦平和運動をさぼるということであろう。 全共闘はどれだけの平和運動をしたというのか。 わだつみ像は再建しなければならない。 それは困難をともなうであろうが、困難をともなわない反戦平和運動というものがあり得ただろうか。 この困難な闘いを進めるからこそ戦争を阻止し平和を守り得るのである。 もしそうならこのような運動が進められる限りわだつみ像再建が実現しないわけがない。 (『元総長武藤守一回想録』武藤守一著) その後、わだつみ像は翌 1970 年に再建され、 12 月 8 日にはわだつみ像再建除幕式(広小路キャンパス研心館)が行なわれました。 再建されたわだつみ像は 1976 (昭和 51 )年に衣笠図書館(旧)に再建立され、 1992 (平成 4 )年 2 月に平和ミュージアムに移設 (注 12 ) され今日に至っています。 2017 年 1 月 史資料センター 調査研究員 齋藤 重 参考文献・資料 『立命館百年史 通史 二 』 ( 学校法人立命館 2006 年 3 月) 『立命館百年史 資料編二』(学校法人立命館 2007 年 7 月) 『月刊美術』平成 6 年 9 月号 ( 実業之日本社 ) 『『きけわだつみのこえ』の戦後史』(保坂正康著 文春文庫) 『彫刻の美』(本郷新著 中央公論美術出版) 『元総長武藤守一回想録』(武藤守一著 史資料センター所蔵) 「学友会宣伝ビラ」(漫画)(史資料センター所蔵) 「わだつみ像縁起」(中村克郎 史資料センター所蔵) 注: (注 1 ) メモ「わだつみ縁起」は中村克郎氏が関わった「わだつみ像」の建立から破壊までをメモしたもの。 複写資料が史資料センターに保存されている。 (注 2 ) このエスキース (仏 : esquisse )とは、スケッチのこと。 わだつみ像の創作 に あたりイメージを仮像(彫刻)として創り、この仮像をもとに、わだつみ像が検討されました。 このエスキースは、わだつみ像が創作されると役割がおわり、末川博元総長に贈呈されます。 2015 年には、末川博元総長の御家族から立命館に寄贈され末川記念会館に置かれた後、現在は大阪いばらきキャンパスに設置されています。 (注 3 「この年の十一月三十日には、日本戦没学生記念会理事長より平和記念像の寄付と共に、それを図書館前に建立し十二月八日に除幕式並びに慰霊祭を挙行したいとの申込があった。 これに対して評議会は『本学としては学術上及び教育上本学に対し特に顕著なる功労のあった者で、本学関係者によって企てられたものに限る従来の取扱によって、この申込を遠慮したい〔略〕寄付の申込は断ることに異議なく可決』している。 この決定の後も「わだつみ像」設立運動は継続され、翌年の五月祭では「像」が展示された。 しかし建立予定地の綜合図書館前に噴水がつくられることにより、運動は終息したものと思われる。 470-471 』) (注 4 ) ・「わだつみ像」という呼称は、像の台座に刻まれた末川博総長の言葉には「わだつみ の 像」と記されていますが、『通史二』の記述ならびにその他の諸資料の記載に従って「わだつみ像」としています。 ・「わだつみ」もしくは「わたつみ」は漢字では「海神」、万葉集や古今和歌集にも出てくる言葉ですが、字のとおり、海を司る神のことです。 この言葉が「きけわだつみのこえ」として戦没学生の手記の表題になったのは、この手記に寄せられた京都の藤谷多喜雄氏の詩「なげけるか、いかれるか、はた もだせるか、きけはてしなきわだつみのこえ」に由来しています。 南や北に散っていった学徒の心を「わだつみ」であらわしたわけです。 以来、戦没学生をあらわす言葉として「わだつみ」が使われだし、像も「わだつみ像」と名づけられました。 (『像と共に未来を守れ-わだつみ像再建立記念-』わだつみ像建立立命館大学実行委員会 1976 年 5 月 20 日) p11 ・現在、「わだつみ像」は 8 体あります。 立命館大学に建立された「わだつみ像」は、その最初の像でした。 「本郷新の代表作は 8 体あっても、平和のモニュメントとしてのそれ(わだつみ像)は 1 体しかない。 それが立命館大学にあるものである。 」(『月刊美術』平成 6 年 9 月号 事業之日本社) 本郷新氏は『彫刻の美』(中央公論美術出版)の中で彫刻について、彫刻に生命が宿っているのは、その彫刻の形が自然そのままの形ではなく、生き生きとした感じをあたえるためのデフォルメをするからである。 しかし実際にそう感じもしないのに無理に変型したところで美しくなるものではなく、しないではおられないような実感が作者の気持ちのうちにわき起こらなければ生きた変形(デフォルメ)はできないのである。 という主旨を述べています。 この「わだつみ像」は戦争に犠牲になった全国の戦没学生の嘆き、怒り、黙(も)だせ(=口を閉ざして言わないこと、沈黙すること)を芸術家本郷新が実感をもって表現した芸術モニュメントでもあります。 この初代の「わだつみ像」は現在、歴史の証言者として立命館大学が大切に保存しています。 2 代目は再建され現在立命館大学国際平和ミュージアムに建立されています。 その他に、本郷新記念札幌彫刻美術館、長万部平和祈念館、私立北海高等学校、神奈川県立近代美術館別館(鎌倉)、東京世田谷区立美術館、和歌山市市民体育館に建立されています。 いつの日か破壊された「わだつみ像」も学園の史資料として保存され歴史資料として活用されることを期待しています。 (注 5 ) 1947 (昭和 22 )年、旧警察法(法律第 196 号)により自治体警察が全国の自治体に設置されました。 1948 (昭和 23 )年 3 月 7 日、従来の京都府警察部は解体、京都市警察局が設置され、 1950 (昭和 25 )年 1 月に京都市警察本部と改称されています。 その後 1954 (昭和 29 )年新警察法の公布により京都府警察本部が設置され 1955 (昭和 30 )年 7 月、京都市警察は京都府警察に統合されています。 従って 1953 年の「荒神橋事件」「京都市警前事件」の頃は、「京都市警察」でありました。 (注 6 ) 歴史的に明らかになっている警察署名、警察官名もありますが、ここでは特定せず警察と一般呼称しました。 (注 7 ) 5 月 20 日の警察による強制執行は、同年 4 月 21 日の文部次官通達「大学内における正常な秩序維持について」に依っています。 それまで大学構内への警察の侵入は「警察の学内立ち入りは、第一次的には大学当局の要請による」(昭和 25 年文部次官通達)とされ、大学の要請や許可無く立ち入ることは出来なかったのですが、この通達は一部過激な学生による違法行動を理由として警察当局が独自の判断で措置することを認め、大学側はこれに協力体制をとることを要請するものでした。 5 月 2 日 大学はこの通達に対して反対を表明しましたが、 5 月 20 日の京都府警による恒心館強制執行が実施されたのです。 対象となった恒心館は広小路キャンパスの中心部から河原町通りを挟んで独立した棟であったことから「広小路キャンパスは含みません」は広小路キャンパスの中心部(存心館や中川会館がある)は対象ではないという意です。 (注 8 ) I氏は当時法学部 3 回生に在籍し、大学側の呼びかけに応えて研心館に泊まりこんでいた一人。 「わだつみ像」破壊を目撃し鮮明に記憶していました。 この証言と当時の学生が配布したビラの記載内容から、破壊行為が行なわれたのは 8 時 30 分~ 9 時 00 分であった可能性が高いと考えています。 5 月 20 日 11 時過ぎ大学が声明文をだしますが、その声明文には「午前 8 時過ぎから広小路校庭に集合しわだつみ像を倒し広小路学舎の破壊行為行なった」と記されています。 もし 11 時頃に「わだつみ像」の破壊が行なわれたとしたならば、同時頃に破壊行為を記した声明文を出すということは現実的でないように思われます。 むしろ 8 時 30 分~ 9 時頃に行為が行なわれたとすれば、充分に声明文に反映することは現実に可能です。 (注 9 ) 「黒ヘルG」はロープとペンキを建物内から持ち出して、わだつみ像の破壊に使用しました。 その時の様子を目撃していたI氏は、「それはあたかも、周到に準備されていたかのように、迷わず建物内から持ち出して、わだつみ像を破壊した」と述べています。 (注 10 ) 泊り込んでいた学友会学生達は、鉄パイプなど「全共闘」の襲撃から身を守るため広く工事現場で使われていた「安全用黄色いヘルメット」を着用して安全を守りました。 (注 11 ) 末川博総長の任期満了( 1969 年 4 月 1 日)に伴う方策について、理事会は「後任の総長が選ばれる迄の機関として代行または事務取扱を置くことについて、種々協議が行なわれた後、総長事務取扱を置くことに決定」( 1969. 21 理事会)し、 4 月 12 日に 1969 年度大学新体制を決定しました。 総長事務取扱には武藤守一が任命されました。 (注 12 ) 1976 (昭和 51 )年に衣笠図書館(旧)に再建立され、 1992 (平成 4 )年 2 月に立命館大学国際平和ミュージアムに移設されました。 その時に常任理事会は破壊されたわだつみ像(初代)の取り扱いについて次のように決定していますが、まだ実現していません。 2.旧像の扱いについて 現在の本学倉庫に保管している旧像については、下記により再建立したい。 (1)時期: 1992 年 4 月上旬 (2)場所:図書館 1 階正面玄関のしかるべき場所 (図書館長等の了解も得る) (3)旧像の説明:わだつみ像の意味、本学に設置された経過及び全共闘によって破壊された事実などを記した説明を像の前につける。 「わだつみ像の(再)除幕および旧像の扱いについて」( 1992年 2月 12日常任理事会)• 125• 101• 100• 102• 103• 104• 105• 106• 107• 108• 109• 110• 111• 112• 114• 113• 116• 115• 118• 117• 119• 120• 121• 122• 123• 125• 126• 127• 128• 129• 130• 131• 132• 133• 134• 135• 136• 137• 140• 141• 138• 142• 143• 144• 145• 146• 147• 148• 149• 153• 152• 151• 154• 155• 156• 157• 160• 158• 161• 165• 164• 162• 166• 167• 168• 169• 170• 171• 172• 173• 174• 175• 176• 178• 177• 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「死んだ人々は還ってこない以上、|日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声

きけ わだつみ の こえ 映画

映画のストーリー 結末の記載を含むものもあります。 1995年、真夏のラグビー場で仲間たちとスクラムを組んでいた鶴谷勇介は、ボールを追って相手にタックルした瞬間に意識を失い、次の瞬間には雨に煙る神宮外苑でずぶ濡れになって行進する学生の集団の中にいることに気がついた。 鶴谷が周囲の学生にどうなっているのか尋ねると、隣にいた男たちは戦争だと答える。 その男たち、勝村寛、相原守、芥川雄三はそれぞれ明大、早稲田、東大のラガーメンだった。 生きて再びここでラグビーをやりたいという彼らの言葉に、鶴谷は衝撃を受ける。 彼は1943年10月21日に挙行された学徒出陣の大壮行会の真っ只中に身を置いていたのだ。 鶴谷は何故兵役を拒否しないのか、何故戦争に反対しないのかと勝村たちに問いかけるが、誰もがそれを一笑に付す。 鶴谷は理不尽な命令に従うことはできないと、逃亡者の道を選ぶのだった。 陸軍少尉に任官された勝村はフィリピン戦線に送られる。 彼は輸送船の中で相原と再会するが、間もなく米軍の爆撃を受け、命からがらリンガエン湾に泳ぎついた。 相原は足を銃撃され重症を負う。 たどり着いた野戦病院では、橋本婦長、津坂映子ら従軍看護婦たちが、昼夜の区別なく傷病兵の看病に追われていた。 一方、航空隊に入隊した芥川は、特攻志願者を募る司令官の言葉に、親や兄妹、友、美しい山や川、それらを救うためには命を投げ出してもいいと思うようになっていた。 特攻部隊に配属された芥川は一日だけの休暇に故郷を訪れ、恋人の三千代の死を知る。 芥川は母親と故郷に別れを告げ、出撃命令を受け取るのだった。 操縦桿を握って飛び立つ芥川は、なんの気負いも迷いも感じていなかった。 フィリピン戦線はさらに激化し、日本軍は各地で敗走していた。 野戦病院にも戦火が迫り、勝村の部隊は後退することとなった。 既に部隊の半数は戦死し、医薬品も弾も底をついたころ、勝村は相原と津坂映子に負傷兵と看護婦を連れて降伏することを命じた。 相原は勝村にも同行をすすめたが、勝村は聞き入れず、投降者の手榴弾をかき集めるとラグビーボールのような固まりを作った。 命があったら神宮のグランドで会おうと相原に言い残した勝村は、その手榴弾を脇に抱えると、「最後のトライだ」と叫んで、米軍の陣地に向かって駆けていくのだった。 憲兵と警察に追われる逃亡の日々を送っていた鶴谷は、広島への原爆投下のニュースを知った。 これで戦争は終わったと確信した鶴谷は「みんな帰ってこい」と仲間たちに呼びかける。 その声に応えるかのような勝村や芥川ら戦地に散った者たちの幻を見た鶴谷は、ふと95年の元のラグビー場に戻っている自分に気がつく。 彼の周りには、勝村や相原、芥川ら学徒出陣で出会った若者たちがボールを持って立っているのだった。

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